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after the quake
Sat.13.10.2007 Posted in γ
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*** まわりは見えるけど

就活の相談で学生が来て、「外のセミナーでグループワークをやったら、みんな(他の大学の人が)優秀でびっくりした。」と切り出された。

「で、彼らは確かに優秀ですごいと思ったけど、自分もそうなって同じような道を進みたいかというと、それも違うような気がして。。。」

「でも、じゃあ自分はどうなんだ、どうしたいんだ、何になりたいんだ、何に向いてるんだ、と考えるとそれがわからない。またゼロからやりなおしです。」と言う。


<(まわりは見えるけど)自分で自分が見えない。>


そういうジレンマって、いつでも、オレにも、あると思う。

大事なのは、 「自分はそうじゃないな。」 という気づきが確かな事実だと気づくことだ。
ひとつの基準(視点)を置くことで、何かを知る手がかりとする、認知心理学に出てくるんだが、この視点のことをなんて呼ぶのだったか。。。
大事なことが思い出せない。苦笑

ま、いいや。
とにかく。

セミナーに参加したことで、ひとつの事実が手に入ったわけだ。
「自分はそうじゃないな」という違和感も、それは確かな事実であり手がかりだ。それを百個集めたら、かなり自分を知れるのではないか。

考えるために足を止めないことだ。

大概の学生は、上のようなセリフを言ったあと、しばらく(考えるために)行動を停止する。それはイマイチだと思う。

わかりたい、と思って考えることも、もちろんやめてはいけない。
ただ、考えているときに、足が止まっている。

やっぱり、考えながら走るってことだな。
走りながら考える、それは不安だし、体力的にも、気持ち的にもまいるようなことだけど、、


*** 思考の停止について

以前、小宮講で同じようなことを書いたとき、洋平くんと、センゲの「出現する未来」(この本今どこにあるのだっけかな?)のU理論や、エポケーの話をして、思考のために立ち止まることの重要性について会話したような気がする。

でも、たぶんそれって、ミクロにみたフラクタルの中での停止であって、大げさなアクションのなかで行う停止とはちがうんじゃないかな。
停止してるんだけど、あたかもそれは第3者から見たら停止しているように見えない、そういうビヘイビアの中で実現させることなんじゃないかな?
(洋平くん、そう思うだろ?)

考えながら走る、この理解が一段深まりやしませんか。 笑

ふと現実に目をやると、オレは特にここ何年かはそうだが、ゆっくり考えよう、なんて思って実際にうまくいったためしがない。
大概自分を救うアイディアは、突然泉のように湧きだすのであり、その流れをどのように呼び込むか、それは 「ゆっくりと」 という表現でもたらされうような感覚ではない。時間感覚で言えば一瞬か30分がせいぜいだという感覚で、むしろ 「それをとらまえて忘れない」 ためにはどうしたらよいか、ということに腐心している。

シャワーを浴びている間に考えよう。オレはその程度だ。笑
瞑想でそれを呼び込むようになりてーもんだ。


*** after the quake

さて、オレの場合も今は考えても、解を導けそうにない。
というわけで、できる(思い出せる)手立ては打った。(それは本当か??)

明日からの1週間の対話・情報交換の中で、いろんな事実が見えてくるだろう。
それを頼りにしていくしかない。(しかないはず)


ふと、やばいくらいの(自分に対しての)不信感がオレを襲う。


それは、

オレは偽物だ、
という昔からの思い。


自分を救うのはいつも積み重ねた「事実」だ。


オレはすごいやつじゃねー。正直、たいしたことない。
それは「事実」を見ればあきらかだ。
そして「事実」があるから、大丈夫だ、とも思える。



神様、いくつかの幸運がありますように。


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your balance nesting your balance 
Sat.17.02.2007 Posted in γ
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*** バランス その1


人間、バランスが大事。


AかBかを選ぶのではなく、AもBもできちゃう新たなCを選択していくのが哲学でいうアウフヘーベンにつながるのだけど、それってAもBも見渡しているバランス感覚、全体を見とおせる目がないとできない。

「真にいいバランスはパワーがある。インパクトもイノベーションもある。」
これは最近ではdocomoのFOMA SH702iDをデザインした日本を代表するグラフィックデザイナー、松永真の言葉。オレはこの言葉を大学生のときに目にして、それからずっと心に刻んできた。世の中にバランスの良さがパワーを持つ事例には、ホント事欠かない。

”バランス”とは全体視することであり、つまり”デザイン”することなんだ。

人間は、バランス(デザイン)の良さに美しさを感じるようにできている。
そして人間には、バランスをとりたい、という気持ちが働いていると考えられる。

最初に戻って、バランスの良さを感じたいとする志向を、全体を見通せる目を手に入れたいとする志向だと置き換えていいとすると、例えば人間が、個の単位ではなくて、もっと全体、例えば人類という単位でモノを見ようとする機能がもともと備わっているということになる。地球とか宇宙とか、チームとか、仲間とか、そういう単位にそもそも人間は惹かれるのだ。

バランス、とは「全体」である。



*** バランス その2


意識的にバランスを崩すことが大事だという話。


オレたちの生活における大前提のひとつ、それは有限の中に生きているということ。
例えば、1日は24時間、という有限。人の一生には終わりがある、という有限。

その中で「何か」に集中的に時間を割くと、他のことに費やす時間は当然短くならざるを得ない。
逆に言うと、意図的にバランスを崩すことで、その分「何か」が恩恵を受けることになる。

洋平が、”東京マラソンを走るので、練習でぜんぜん勉強ができてません。”
と謙虚にメールに書いてきた。

彼は今、意図的にバランスを崩している。
そのことで、東京マラソンを手に入れる。
東京マラソンを走ることで、大きな何か(バランスを崩した恩恵)を手に入れる。


人間、時に意識的にバランスを崩すことが大事。


小宮講で、この話を書くのは3回目だけど、人間の体の構造はそれを証明している。

脳というのも普段は各部位がそれぞれバランスよく、体の機能を制御するように機能している。
ところが、脳の一部の機能(例えば視覚)がなにかのショックで失われると、そのバランスが崩れる。
するとその隣に位置する機能(例えば聴覚)が、失われた機能の部位を侵食して、結果視覚を失った人がその代わりに、すばらしい聴覚の能力を得ることがある。

このように、人間の体そのものが有限のキャパシティではあるが、その世界の中で普段保たれているバランスの拮抗が崩れることで、ある機能が本来の関係性からは許されないほどの能力を得られるように設計されている。

20070217124228.jpg


全体のバランスを崩すことで、「個」にスポットが当たるのだね。



*** バランスをとる × バランスを崩す


どうやら”バランスがとる”ことと”バランスを崩す”ことのバランスをとることが大事、ということか。

マトリョーシカ(※)のような表現になってきた。
IT企業出身としては、ネスティングと言うべきか。笑


”全体”としては、整然とした関係性が強さであり美しさである。

”個”としては、拮抗している関係性を断ち切ったとき突出した力を発揮する。

ここにまた、人間は”個”と”全体”の拮抗の元に成り立っているのだと言う考えることができる。


”個”は他の”個”との関係性という制約のもと、それぞれが突出しようとふるまっている。
”全体”は”全体としての”キャパシティがゆえに、”個”の集合体として均衡を保とうとする。しかしながら、その”個”の自律が”全体の”質の高さを底上げすることに他ならない。

ポジション間でレギュラーを争そわせる、野球やサッカーのチームづくりについて、ここに正しさを見つけ出すことができる。


話が逸れるが、オレは大概理屈から「ホラ、これもこんな風だ。」と書いているが、実際にやりたいのはこういう風に理屈から「具体的な何か」を創りだすことだ。
言ってみればオレは勉強すればするほど、例えばサッカーチームの練習プログラムアドバイザーになれると思っている。笑



*** オレたちのキャリアデザイン ~ついでにおさらい~

この図はよくオレが使うキャリアデザインのフレーム。

20070217124445.gif


左下の矢印のスタート地点、これは「個」である。
自分がどんなことを知っているのか(見てきたのか、聞いてきたのか、経験してきたのか)という、”今の自分(個人)”。

今の自分がどこに向かって進んでいくのか。その→を考えるにあたって、左上からもうひとつの視点がやってくる。
それがすなわち”全体”としての視点。

それは、社会であり、家族であり、チームであり、あなたがすべきことであり、あなたの価値観である。

そしてその「個」としての進むべき矢印に、「全体」としての視点から来る矢印が正しく干渉して、自分のキャリアベクトルがつくられる。
「個」と「全体」でつくられたバランスのとれた全体図は、やはり美しいものになるだろう。



うん、

今日はオレのちっぽけな(感情・知識・思想)の赴くまま暴走しないうちに、終えるとしよう。
時間を使いすぎると1日のバランスが崩れちゃうからね!

ではまた。


"your balance nesting your balance"
あなたのバランスを入れ子にしているあなたのバランス



マトリョーシカ人形(ロシア語:Матрёшкаマトリョーシュカ、Matryoshka doll)は、ロシアの木製の人形。単にマトリョーシカともいう。胴体の部分にて上下に分割でき、中には少し小さい人形が入っている。これが何回か繰り返される入れ子構造になっている。入れ子にするため手は無く、胴体とやや細い頭部からなる筒状の構造である。6重以上の入れ子である場合が多い。(Wikipedia)

ネスティング (nesting)または入れ子構造(いれここうぞう)とは、コンピュータのプログラムにおいて、なんらかの構造の中に別の構造がすっぽりと収まっている状態のこと。ネスト、入れ子とも呼ぶ。ループの中でさらにループが書かれている場合や、if文の中でさらにif文が書かれている場合など、ある制御構造の中に同種の制御構造が入っているものを指すことが多いが、全く異なった構造であってもネスティングと呼ばれる。(Wikipedia)

Russian-Matroshka.jpg


クランボルツ×クオリア
Wed.31.01.2007 Posted in γ
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「今思えば、あそこでたまたまアレを、アーしたことが大きかったな。もしもあそこでアーしてなかったら。。。」

偶然の行いが、あたかもお約束だったように今に繋がる、そんな気がしたことはない?


キャリア開発の世界において、スタンフォード大学のクランボルツ博士が「計画された偶発性」という表現を使って、能動的にキャリアを切り開いていく考え方について述べている。(今は商標の関係で違う言い回しを使っている)

クランボルツは「個人のキャリアは人生の中で偶然に起こる予期せぬ出来事によって決定されている事実があり、その偶発的な出来事を主体性や努力によって最大限に活用し力に変えることができる。また、偶発的な出来事を意図的に生み出すように積極的に行動することによって、キャリアを創造する機会を生み出すことができる」と言っている。


*

自らの積極的な行動が偶然のチャンスの起因となる”位置関係(関係性)”は疑いようがない。つまりその関係性をもってして、偶然の好機を意図的に呼び込んだ、という一見矛盾するような表現が可能になる、としているのである。

もっとも、このクランボルツの考えを(クランボルツの講演を直に聞いた今でもクランボルツ自身がどの程度サイエンスをもってこの理論を発表しているのかはわからないのだけれど)安易な解釈で世間に広めているカウンセラーを、ネット上だけでも多数見ることができる。

ま、それはおいといて、と。

実は言いたいことは先日、日経新聞の「私の履歴書」を読んでいて、このような(計画された偶発性のような)一見矛盾する表現の中に真実を見る行為がでてくるということ自体がすなわち、他の科学分野に対するキャッチアップが見られたと喜ぶべきなのだろう、と考えたということなのだ。


*

「私の履歴書」という連載を今回担当されていた江崎玲於奈先生の話の中でこんな記述があったのだ。
江崎先生は「素晴らしい発明、発見が生まれるのはどのような研究環境か」と聞かれて、こう答えたという。

萌芽的業績は個人の創造力に負う。そこで優れた研究者を多数集めたとしよう。彼らが個性的、独創的であればあるだけ、独立を求め干渉されることを好まない。一方、研究所長はマネジメントの立場から重点課題に焦点を合わせた秩序ある体制を求める。ここにはちょっとした二律背反がおこる。そこで最も好ましい研究環境を一口でいえば、”組織化された混沌”とでも表現せねばならない。部分的に見れば研究者は自由奔放に仕事を進めているので混沌としているが、研究所全体としてはバランスがとれ、秩序がある状態をいう。(略)オクシモロン(oxymoron、撞着語法)を知ってほしい。それは”組織化された混沌””公然の秘密””急がば回れ”など、対立する語句を並べて新しい深い意味を主張する語法である。


*

ここで江崎先生が書いている撞着語法がもたらす”深い意味の主張”について気をつけなくてはいけないのは、けっして「存外に反対のやり方のほうが正しいものだ」という短絡性に落ち込まないことだ。(その意味において”急がば回れ”はわかりづらい)

つまりそれは「個であり全体である」というフラクタル的概念で理解すべきであり(特に江崎先生の組織論についてそのように考えるとわかりやすい)、二者を包含した新たな三者の姿を現す止揚的な意味なのだと理解していくべきなのだ。

オレの中では、”オクシモロン”も対象とされるモノ、事象の”位置関係(関係性)”を見誤ってはいけないと思うわけだ。


*

もっとも小宮講ではずっとこの考え方を追っていて、<ふたつをつなぐもの>や<関係性についてのいくつかのこと>といった講(ブログ)でそのあたりのことに触れてきた。
だからもうめずらしくもない、と思ってもらえるかもしれない。

オレの近くで話を聞いていてくれた人ならわかるように、オレが使う<3C変形モデル>も、第3の視点(2点を繋ぐ論拠)がもっとも肝な存在となっているわけだ。これが、モノ、事象の”位置関係(関係性)”の表現そのものである。


そして、もうそろそろ小宮講のように、既存のモノやことを斬るといった遊び~検証行為~はほどほどにして、具体化された何かを作り出す行為にシフトしていかなけらばいけない、そうも思っている。いずれにせよ、こうして見たもの聞いたものを振り返りながら書いていく行為そのものに、未来を考える発展的行為があるわけだが。

知っている事実、経験を増やし、それ(過去)を振り返る中に未来があるわけである。
これもすなわち撞着語法的認識であり、ある意味、この思考が真であるが故の、ということで腑に落ちるのだ。

3C

*

創造は過去に向かって起こる。

この前目を通したと日記で書いたBRUTUSの茂木健一郎のテキストには、やはり注目的なものがいくつかあった。
その中のひとつに、このような撞着語法的表現を見た。

何かが創造されるとき、脳のメカニズムとしてはある種の記憶の整理が起こり、その結果何かが生成されるわけだけれども、そのときなぜ過去に遡るという形でクオリアが立ち上がるかが、非常に面白い問題なのです。

※クオリアとは日常用語でいう「感じ」のことである。「イチゴのあの赤い感じ」、「空のあの青々とした感じ」、「二日酔いで頭がズキズキ痛むあの感じ」、「面白い映画を見ている時のワクワクするあの感じ」といった、世界に対するあらゆる意識的な感覚そのものである。(ウィキペディア)

未来について何かを掴むことは、イコール過去に遡り何かを掴むことであり。

未来に向かっているつもりが、過去に向かっている。

それはパラドックスであり、同時にここにまたアウフヘーベンの構造を見ることになり、それはまた考え方が真なるゆえの、ということで腑に落ちるのだ。


*

<そしていつかまた手放す>より

うろ覚えだが、脳の一部分が何かの原因によってダメージを得て機能停止になるとする。例えば、そこが言語を司る部分だとすると、言葉を失うことになる。ただ、脳ではどのようなことが生ずるかというと、機能停止した部位(意識的な命令信号が届かなくなった部分)に対して、隣の部位機能が侵食を始めるのだ。
つまり、言語機能を司る部位の隣が仮に聴覚を司る部位だった場合、聴覚機能部位が、隣の元言語機能部位にまで侵食して広がり、結果として、その人は言語機能を失ったが聴覚機能を特異な領域にまで発達させる、ことになる。

脳の大体どの部分が、どんな機能的役割を担っているか、近年の研究で明らかになってきている。ただ、それは絶対的なものではない。
脳は、役割分担をしつつも「全体であり、個である」フラクタル構造を持った存在である。つまり、聴覚を司る部分を切り取ってしまっても、それでもって聴覚が完全に失われるわけではなく、聴覚は脳のほかの部分が補おうとする行為によって、その機能は完全ではないが保たれるのである。
そもそも持っているその関係性によって、ある機能がどの程度の能力を発揮するかというバランスが決定され、保たれている。

個がそれぞれ発達して、全体が構成されているのではない。個はもともと全体性を兼ね備えており、それはすばらしい可能性を既に表現しており、むしろ関係性がそこに制御をかけている、ということなのか。


*

振り返って考えれば、オレは以前”関係性がそこにかけている制御”という表現をしたが、それはすなわち撞着語法がもたらす”深い意味の主張”のことでもあり、創造もある意味でその関係性の制御からくるということだ。つまり感覚、感じるという行為とも同じものとしてとらえられる。
したがってクオリアを解明することは、その研究対象の”位置関係(関係性)”の解明そのものである。

<味覚体験>
味覚は甘味、酸味、塩味、苦味、うま味の五つの基本味から構成されていると考えられており、これらの組み合わせによって数々の食料・飲料品の味が構成されている。分子レベルのメカニズムは、嗅覚と同様に、舌にある味覚受容体細胞において、鍵と鍵穴の仕組みでレセプターに特定の分子が結合すると、特定の味が体験されることになる。しかしながら、嗅覚の場合と同様、ある特定の形状の分子が、なぜある特定の味をともなっているのか。この組み合わせが成立している背景については、依然何も分かっていない。 (ウィキペディア)

例えばこの場合は、分子レベルの”位置関係(関係性)”の解明ね。


*

小宮講なんだから、人のレベルにシフトしようか。

組織での創造的行為の可能性、すなわち組織が個人の足し算ではなく、組織としての掛け算的成果の発揮ということについて思いを馳せたとき、クオリアをメタファーとすればそれはイコール人間レベルの”位置関係(関係性)”だということになる。

ではその具体的な関係性とは何か。

人間関係がよいということ?

ああ、一言で括るとなんて稚拙な。

それは結局人間に向けられた五感であり、感受性を揺さぶるものである。
サイエンスを捉えていったところが実にベタな話になる。

これもまた真なる故の、ということで腑には落ちる。笑


*

クオリアのメタファー的利用にさらに可能性があり。


クオリアの問題を扱った思考実験に以下のようなものがある。
以下はウィキペディアより引用。

●逆転クオリア
同等の物理現象に対して、異質のクオリアがともなっている可能性を考える思考実験。色についての議論が最も分かりやすいため、色彩について論じられることが最も多い。同じ波長の光を受け取っている異なる人間が、異なる「赤さ」または「青さ」を経験するパターンがよく議論される。逆転スペクトルとも呼ばれる。

gyakuten


例えば、これは波長 630-760 nm の光が網膜に入射すると現れる、赤のクオリアだが、果たしてオレは皆と同じ赤を見ているだろうか。

red


●哲学的ゾンビ
全ての面で普通の人間と何ら変わりないが、クオリアだけは持たない、という仮想の存在。心の哲学の世界で、クオリアという概念を詳細に論じるためによく使われる。

●マリーの部屋
生まれたときから白黒の部屋に閉じ込められている仮想の少女マリーについてのお話。マリーは白、黒、灰色だけで構成された部屋の中で、白黒の本だけを読みながら色彩についてのありとあらゆる学問を修める。その後、この部屋から開放されたマリーは色鮮やかな外の世界に出会い、初めて色、というものを実際に体験するが、この体験(色のクオリアの体験)は、マリーのまだ知らなかった知識のはずである。この事からクオリアが物理化学的な現象には還元しきれない事を主張する。 (コミヤコウ注:この最後の表現は適切じゃないのではないかな)

●コウモリであるとはどのようなことか
コウモリはどのように世界を感じているのか。コウモリは口から超音波を発し、その反響音を元に周囲の状態を把握している(反響定位)。コウモリは、この反響音をいったい「見える」ようにして感じるのか、それとも「聞こえる」ようにして感じるのか、または全く違った風に感じるのか(ひょっとすると何ひとつ感じていないかもしれないが)。こうしてコウモリの感じ方、といった事を問うこと自体は出来るが、しかし結局のところ我々はその答えを知る術は持ってはいない。このコウモリの議論は、クオリアが非常に主観的な現象であることを論じる際によく登場する。

koumori

*

これらはすべて人材開発やキャリア形成の話ににそのまま置き換えられる。
現象的意識や主観的体験という言葉は、クオリアとほぼ同義に使われているとのことだけど、個人のキャリア感は幸福感だったり充実感だったり、つまり感性の領域に踏み込んでいるからそのまま流用できるわけだね。

結局、、、、クオリアは、、、”位置関係(関係性)”の解明は、、、
頑張った割には何も見えてないのか。

でも、理解は進んだぞ。




言い方ヘンだけど、暗黒エネルギーとか暗黒物質とかあの世とか、見えていないほうが見えるようにならないと、これ以上は難しそうだな。
つまり、ここに感受性を欠いてはいけない。サイエンスの精神をもって。

もうこれ以上難しくなるとオレの頭じゃつらいかもなあ。
でも、ナントカしてくれるかも。
茂木健一郎が。

著書、読んでみますかね。







関係性についてのいくつかのこと
Sun.21.01.2007 Posted in γ
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1 好きにならずにいられない

Bei Xu がカバーした、You're Beautiful を聴いていて。
自分の内側から、引き込まれてしまうような、そんな(人に惹かれる)感覚は何処から来るのかとふと考えた。


そういうのって元々自分たちは知っていて、べつに教えられたわけでもなく、一瞬のビジュアルや表情に惹かれたりするわけで。
理屈も一瞬にすっ飛んじゃったりするわけで。
だからスキになっちゃいけないひとをスキになっちゃったりもするわけで。あ、しないですか。
あとから理屈を考えて、やっぱりスキじゃない、とか、だってしょうがないじゃない、とか言ってみたりして。


同じように、元々人間は人から好かれたい、という感覚があるのもなんとなく知っているわけで。
んでもって、それを理屈で表現しようとして、第3者からの認知・仮説の想定行為があって。
これはあーだからヘンだとか、これはうーだからヨイとか理屈に還元して何かを選んだり。
そしてその場合には、誰かが気にかけてくれなかったら無意味だったり。
それでひどく落ち込んだりとか


人間ってやっぱり、アプリオリ(持って生まれた)なところから、人に好かれたい、人を好きになりたいって設計されている。


ま、自分以外の対象がなければ、そんなこと不必要なわけで。
もしも生まれたときから無人島でひとり暮らしだったら、好きになる、とか好かれたい、とかそういうのって元々持ってても、まったく開発されないで、衰えてしまう感覚ななのかもしれないけど。


でもここは、無人島じゃないわけで。
人と人の関係性の海だから、イコール人から認知される、人を認知する、という行為は不可避なわけで。

そして関係の対象がある場合(もちろんすべてにおいて対象はあり、)人はもともと”つながろう”と設計されていて、それは人間の設計思想を超えて、人間以外のすべてのものも、そのスキームに準じているわけで。




2 私にはあなたが見えます

南アフリカのナタール州北部の部族の間でごく普通に交わされる、英語の「Hello」にあたる言葉は、「サワボナ」 という。
直訳すれば、私にはあなたが見えます、という意味。

そして、あいさつをされた人が返す言葉は、「シコナ」 = 「私はここにいます。」

言ってみれば、あなたが私を”見る”ことで、はじめて私が”存在”しはじめる、という意味になる。
まるで物理的な存在の意味なんて認めていないかのようだ。

このあいさつは 「ウブントゥ」というサハラに住む原住民に浸透している精神の一部で、「ウムントゥ  ングムントゥ ナガバントゥ」という、古いことわざに由来している。
ズールー語から来たこのことわざは、

「人間は、他の人々がいるおかげで人間になる」

という意味がある。



オレは、今ここにいる、という事実に負けそうになるときがある。

「オレは、ここにいるだろ?」

それが言えなくて、言ってもしょうがなくて、苦しくなったりするけれど、


その前に、

「私にはあなたが見えます。」

とオレは口に出しただろうか。



3 小宮講でした、恋愛のNEXT STAGEの話

「ひとり」と「ひとり」から、 素晴らしい「ふたり」になるために。


ビジネスの現場では、オレたちは現実社会に起きている課題に対して、個人の思考と行動だけでは何ら解決に至らないということを知っている。
IQ140の人間を揃え、人間関係に重きを置いてことを進めても、実際にチームとしてはIQ85しか発揮されてないことはよくある。
だから組織(チーム)として学び、組織(チーム)として問題解決にあたり変革をもたらし続けるには何が必要なのかを考える。

チームとは、一人ひとりの思考と相互作用の産物であり、それは恋愛関係でも同じ。
そしてそれは恋愛で言うなら、1対1の関係からの発展。

1対1の関係でいる限り、そこにある、

 与える
 与えられる
 求める
 求められる
 譲る
 譲られる
 合わせる
 合わせてもらう
 我慢する
 我慢してもらう

そういう関係性から逃れられない。

恋愛を自分個人の問題として捉えているから、個人の理想が叶わないと、ジレンマに陥る。
それはすべて、振る舞いの単位を”個人”で考えているからだ。

”ふたり”をベースに考え、”ふたり”をベースに学び、”ふたり”をベースに成長する、それにはどうすればよいのだろう。
(小宮講ではここで、「学習する組織」のメソッドを紹介した)



恋愛の次の段階は、求めるものではなく、与えるものではなく、
ふたりが、個人の理想を活かし成長しながらも、同時にふたりを単位にした理想を求め行動することで、ふたりにおいて成長し、新たな未来を共有すること。


「ひとり」と「ひとり」から、素晴らしい「ふたり」になるために。



4 ふたたび第3者からの認知について


例えば、自分を孤独だと思うことがある?


オレたちのすべては、関係性(つながり)によってその存在が保たれている。
分子レベルでも、生物レベルでも、脳も意識も、キャリア形成も、チームも、コミュニティも、ビジネスも、地域も国家も、地球も宇宙も。

孤独という表現じゃないとしても、そういった関係性(つながり)を自分で認識できないとき、どうすりゃいいのか。


http://ameblo.jp/mhl2005/entry-10023881295.html
イギリスにいる家田君が、彼のブログで”Last night, DJ saved my life.”と書いてた。
あのエネルギッショな彼が、かなり憔悴していたのだと思う。
クラブのフロアはそれを覆い隠して余りあるなにかを彼にもたらした。

オレの尊敬する、DJでありサウンドプロデューサーでもある M.O.K.も何度となく彼の日記の中で、
君を救えないけれど、ここ(クラブ)にきて、話したり、踊ったりすればいい、
とメッセージしている。



例えば、音楽が人を救うことがあるわけで。



人の感性が何かに響いたとき、人のエネルギーは反応すると思われ。
それをうまくトリガーにして、拡張循環に乗せていくことで、自分を救えると思われる。

言ってしまうと、これらもまだ解明されてないレベルにおいての、何かエネルギーレベルの関係性が基本になっている。

自分の”エネルギー”とか非科学的な言葉を使うけど、前にも言ったけど、宇宙の世界では、まだ解明されてないエネルギー(暗黒エネルギー)の存在はもうクリアされてるわけで。
ここで目に見えないものを否定してしまうと、うまくいかないのは仕事でも同じだと、そういうことも以前に書いた。


自分エネルギーの存在を認めて、エネルギーレベルのメンテナンスをきちんとしようと、そう思うわけで。



オレはどうしようかな。



Will you say you're Beautiful?


*

最後怪しい辺りはやはり小宮講らしくもあり。笑


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自転車に乗る
Sun.24.12.2006 Posted in γ
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自分が蓄積した事実(経験や知識)に方向感を持とうとるする(どういう風に利用するかを考える、もしくは意志をもつ)ことで、そこに飛躍した利用法の概念(メタファーやアナロジー)が生じ、有限の”因”から無限の”果”をつくることができる。

それがオレが追っかけている考えだ。

*

生まれ変わり、という概念(精神とか魂の話じゃなくて)を自分のために少し真剣に具体的に考えたとき、経営やテクノロジーのイノベーション、キャリア形成とか語ってきて、もしくはもっと手元のオペレーションレベルのことを語ってきて、自分はさまざまなレベルでそれは実現可能でフラクタルなもの、全体であり個であるものと考えてきたのに、どうして”自分自身”という観点においてはこれほど自由になれないのかと思った。


*

この数日で急速にオレは”生まれ変わりたい欲求”に導かれ、ただ、実際に自分に起こったこともしくは実際の雰囲気というのは、本や音楽やテレビや大事な人との話なんかを通じて昔の感覚を思い出す、もしくは再認識するというようなことだった。それはスパイラルの中に生きているという感覚や、リスタートという感覚で説明できるかもしれない。
でも、そういう捉え方に異論を唱えたくなる自分がいるのだ。

前に進む、ということはどういうことか。


*

ここ10年くらいの間にオレに起きた出来事とおれ自身の”思い”いうのは、「(どんなことであれ)オレはそれらをすべて抱きかかえその上で浮上する」ということにちがいなかった。
オレはずっとそういうふうに望み求めてきた。
それに対して、ここ2、3年にオレが痛切に思い知らされたことは、「おまえにそんな資格はない」ということだった。
いくらそこに自分の誠実さを求めてもそこにドラマは無い。それは新約聖書のヨブよろしく試練でしかなかった。

オレはどんづまっているではないか。笑
前に進みたい。

だからオレ自身の想いの屍の上に、それを抵抗し体を動かして何かを打ち立てようと思ったかもしれない。そういう”屍の上”に立つこと(もっときれいな表現が好ましいけど)は、経験の積み重ね、事実の積み重ねでもあり、それを活かすことがキャリア形成よろしく、オレを未来へと導く。そう思ったかもしれない。

(こんなことを書いていること自体オレは反吐が出そうになり、ああ、だめだめだ、という気持ちになる。落ち込むのではなくて、スポーツの練習で、だめだ、もう一回!という感じ、)


*

そうしたときに、ふと掴みかける思考。ふと取り出す本。

筑波大学の蓮見孝先生は、「感性的思考の特質」を以下のように記している。
(蓮見先生は日産のデザインセンター出身でデザインの形態論が専門)

 直感的なイメージは画像的である
  ・シナリオを有し動画的に発展する

 直感的イメージは、想起に至る動機を有する
  ・何かに執着しているという背景の存在
  ・関連する経験や知識の影響を受けている
  ・無意識下に情報収集、検索行動をとっている

 個々の感情が瞬間的に一つのまとまりに統合される
  ・自説となりえる深い理解が得られる
  ・メタモルフォーシス(変態)の概念に似ている
  ・ひらめきやアブダクションに関係がある
  ・Making-sense ~自転車に乗れるようになった時に似て
   忘れることが無い
  ・思考空間を浮遊しながらまとまりたがっている知識や経験が存在する
  ・好奇心を刺激するイニシエーター(起爆剤)的な情報と統合化に
   働くプロモーター(促進剤)的な情報が存在する

これはオレが野中郁次郎教授(経営学)から学ばせてもらったことやその後の自分の興味の発展をなぞる、まさしく相似形(フラクタル)だと言っていい。


*

今見返して、まったく新しい気付きが埋め込まれているわけではない。
芸術も経営学も同じ、そういう理解をオレにくれた記述。

ただ、今メタモルフォーシスという言葉が頭に浮かび、オレにまた次への思考へ繋がる橋渡しをしてくれたのだ。
理想は自分のオペレーションレベルや、せいぜいビジョンを打ち出すレベルなんかより、ずっと高いところにあるんだ。

ああ、そうなれるものならそうならなければいけないのだな。
ごたくを並べていても、自己満足の領域からなかなか抜け出せないでいる。


*

前回だったか、前々回だったか、思考を止めたら死んでしまう、というような言葉を書いた。

そうか、ある意味、死んでいいのだな。


オレはきっと死ぬのが恐くて恐くて、だからこうやって考えようとする。

ここ数ヶ月で自分に起こったことが繋がっていく。なんかわからんけど、サンクス。

そしていいクリスマスプレゼントになった。

こうやってみたら、準備は結構進んでいるではないか、そうだろ?



後は、自転車に乗れるようになりたい。

(大山のぶ代の声で) ぼくカウンセラー~
Sat.16.12.2006 Posted in γ
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「ようこそ先輩」というNHKの番組がある。見たことある?
今日たまたまテレビをつけたところ、その終わりの10分くらいだった。
有名人が、自分の母校である小学校に行って、特別授業を行うというこの番組、たまたまでなくては見ないんだけれども、いい味を出していることが多くて好きだったりする。
今日の先輩は大山のぶ代よだった。昔、ぼくどらえもん、の声やってた人。

今日の設定は「歴史上の偉人になったつもりで、他の生徒の弱点を克服する相談にのる」というものだった。
番組はもう最後の発表場面。

女の子の相談にのる男の子が選んだ偉人の設定はベーブ・ルースだ。
(どうしてその子がベーブ・ルースを選んのだのかは知らない)

さて、その女の子の弱点とは、「人前に出ると声が小さくなってしまう」というもの。
番組のナレーターが言う。
「ベーブ・ルースになった○○君、昨日はこの相談の回答を ”意識を強くもとう!意識を強く持てば大きな声が出るぞ”と書いていました。」

ほほう。小学生らしからぬ言葉表現。
そしたら、ぼくどらえもん大山のぶ代のコメントがすかさず入る。

「これがこの小学校だけの問題なのか、全国の共通の問題なのかはわからないけど、とにかくみんな回答がテクニックで済まされてしまうんですよ。問題だと思いましたね。」

お、そうであった。オレはキャリア・カウンセラーであったね。ほほう、そういうことですか。
そもそもカウンセラーというのは、こういう相談にのる人のことだったよ。
オレなら、なんて言うだろうか。

そんなこと考えるヒマもなく、番組は進む。
ベーブ・ルースになった○○君の今日、本番でのコメント。
「(外人風な口調で)私も同じだったよ。私も打席に入る前はすごい緊張したよ。だから緊張していいんだよ。緊張しても一生懸命やれば、、、、」
ま、そんな感じのコメント。いや、すまん、全部は覚えてない。笑

とにかく。おほん
立ち位置の変化があった。
他の偉人と化した子供達も一様に、何らかの「いいんだよ(グリーンだよ、と続ける子はいなかった)。」コメントが続く。恐らくはじめはアドバイス的な「こうしてみたらいいんじゃない」コメントが多かったのではないかと思われるが、昨日から今日にかけての間に、みんなコメントを進歩させてきたのだろう。

「お金がたまらない」という弱点を相談された、外国から来て日本語がまだつたない女の子はこんな風に答えた。
「君はサッカーが上手だよ。魚の世話も好きだよ。好きなことを一生懸命やればそれでいいと思うよ。」

*


子供達は明らかに、相手を良くも悪くも「変えよう」とする立場から、「肯定しよう」という立場に変わった。
どうしてかはわからない。見てないから。ま、それでもオッサンは充分満足した。

で、それはいいとして。
ここからは昨日の続き。

オレを含めてカウンセラーな人がしてはいけないこと。
それは、誰かに相談されたときに、間違った”解”を与えることである。
ま、オレの場合、カウンセラーになる以前、採用の仕事をしていたときに、とにかくしょっちゅう学生さんから質問されるポジションにいて、しかもそれは企業のイチ採用担当者の立ち位置を超え人生や哲学に関するような質問もよくもらったわけで、よく考えればそのときオレのカウンセラーという職(というかカウンセリングというスキル)は運命づけられたのかもしれない。

とにかく(今日は”とにかく”が多い?)。
間違った解を与えないにはどうしたらいいか。


うほん
だから諸君、カウンセラーとは解を、解っぽいことを決して自分から口にしないのだよ。

はい、口にしません。
で、どうするのかって?

言わせるんだよ。自分で。
だから、カウンセリング手法というのは、ほぼ傾聴スキルにつきるのだ。
聴く、聴く、聴く。言わせる、言わせる、言わせる。そうしていると、だんだん自分で自分の言葉で語っていけるようになるのだ。

んでもってさんざん言ってもらった挙句、
「君はつまり、こうしたいんじゃないかな。」と決めゼリフを吐く。すると、
「あーーーーー。そうなんですーーーーー。そのとおりです~。」
とうまくまとまるのである。

そのためのスキル。そのための関係構築。
もちろんまったく相手の意見に介入しないわけではないけれど、基本スキルは傾聴なのだ。

*


え、昨日はこんな話してないだろって?

今日、この番組を見ていたら思ったんだよ。ああ、これも同じ「ほんとうをめぐる冒険」なのだって。

つまり、気の利いた大人が使う語彙を当てはめればさ、それが得点の高い”解”として機能すると、子供達は思っている。
いや、それは大人たちも多く思っているわけだよ。

そして解が見つからないとすぐにギャースカ文句タレたりする。もしくは解が見つからなくて不安に明け暮れたりして死んじゃいそうになったり、死んじゃったりする。

でも、解はいきなりには手に入ってこない。

そこに存在するのはフレームや、方法論であり、そこから方法を決め、自分で解を手に入れなければならない。
それが未来のことであれば、解は確定されうるものではなく推論の上のものであるから、仮説推論的に解を導かなくてはいけない。せめてもの拠りどころとして。

それがなぜかわかってない。世の中、”解”合戦だ。耳障りのいい模範的”解”が、そこかしこに溢れている。

*


ちなみにオレが「人前で大きな声が出せない」とか悩みを相談されたらこんな感じ。

まず、大前提として、解は、ないのです。 え、もう聞いた?
だから、、、オレが拠りどころとするのは、フレームとしての正しさ、方法論としての正しさなのよ。
っていうことで、実は相談内容はなんでも同じなんだよね。

それには、まず、その人の様子を、こと細かに聴くのです。
どんなかんじなのか、どうしているのか、とにかく情報収集する感じで聴く。
聴くと、(それはつまり相談者にとっては”話す”と、)オレは事実情報収集ができ、相談者は事実情報の確認ができることになる。

事実、というのはかなり大事。
相談者が”している事実”、というのは、見方を変えると、本人が”できる”こと、になるから。
相談者は、自分の事実=自分のできる事、について、やだ、とか、よくない、とか評価(これをスキーマっていう)をしているかもしれないけど、とにかくそれが事実であり、それは相談者が”できる”ことに他ならない。

それが受容できると、それは”できる”という語感がそのまま示すように、自己肯定感へとつながっていく。
同じ事象に対峙しているのに、評価を取り除いて単なる事実と化することによって、自己否定を自己肯定に変換することができる。
それは相談者に次のステップを踏み出す意欲をもたらし、そして問題の解決へ、、、という感じ。
わかるかな。

で、さっきも言ったけど一般的に(キャリア)カウンセラーのスキルは何かって言うとさ、そもそも話をしてもらうための信頼関係を構築するスキルだったり、事実関係をひたすら聴くための傾聴のスキルだったりするわけよ。(あと履歴書の書き方とか、アホみたいなスキル)

※ちなみに今どうしてもう一度 ”カウンセラーのスキルは何かって言うとさ” ってわざわざ書きだしたかっていうとね、
(だって今まで書いてたのが全部カウンセラーのスキルでしょ、って思ったでしょ?)
カウンセラーって、こうした方法論とか、フレームみたいなものって、まったく教わらないんだよ。
っていうか、こんなこと考えもしないで、みなカウンセリングしてると思う。

じゃ、関係構築のスキルとか、傾聴のスキルとか、それ以外の方法論とかフレームの勉強はどうしてるの?って聞きたくなるよね。

どうしてるの?オレが聞きたいぜ。

そういう意味じゃ世の中には、怪しいカウンセラーいっぱいいると思うよ、オレ。うん、90%くらい、コワーイ!
あ、むしろ今日のオレがコワイ?なぜそんなにムキになってるのか?


だからそれは、オレが今かなり生活をかけて夢中になっているのは、「ほんとうをめぐる冒険」であるからなのだな。

うん、それがわかった!今日!

めでたし、めでたし。

*


※カウンセリングについて一部かなりのブログ用強調・脚色・主観がはいっているかもしれません。カウンセリングという仕事を軽率に語ることがここでの目的ではありません。ちょっとテンポ良く語りたいだけ(笑・それはウソかも。いい意味での警鐘か!うん、それはカッコイイ)ですので誤解のありませんよう。キャリアカウンセラーはもちろん、それ相応のスキル獲得、学習をこなさないと取得できない公的資格です。




本当のことをめぐる冒険
Fri.15.12.2006 Posted in γ
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オレにとって、正しいこと、ほんとうのこと、というのは重要なキーワードである。そのきっかけは何であったか、それも明確であるのだが、まあ、それはよいとして。

この5、6、年はまさしく”正しいことをどのように求めるか”、とにかくそれに固執してきたように思う。

*


例えば、オレにとってすこぶる正しいこと。

皆”未来に向かって生きている”ということ。

将来、とか夢に向かって、ということではなくて、皆、今というこの瞬間の積み重ねの中に生きていること。
つまり今を、次の瞬間にむかって生きているということ。

だけど人間はその都度、今という瞬間の都度、目や耳などから入ってくる情報を処理して対応しているのではなく、その次に起こることを推論し、それをコントロールして生きている。
だから認知はどのようにされるか、推論をいかに行うかってことを知ることはオレにとってすごい重要、ということになる。

そしてまた、”次に起こること”を知るための知識の獲得にこだわるのは、皆が、未来に向かって生きている、顔を上げて今を生きている、その一瞬の場に立ち会うことを自分の仕事にしたいからに他ならない。

*


「方法論」という言葉に惹かれるようになったのも、次に起こることを知ることが重要なテーマになったからだ。
つまり解をひとつ、これが正しい、と示すことは本質的に誤っていて、解を導く原則や、法則のなかに”ほんとう”があるような気がした。

だから電子の配置からそれに惑星配置が相似であることを導き、新たに小惑星セレスが発見された”テティウス・ボーデの法則”や、元素の周期律表から後に必ず発見されるであろう元素を立体的に予想し、かくしてその通りに新しい元素が発見されたことについて、「未来予知を確たる根拠を持って行った事例」として、とても価値のあるものだと感じるのだ。

そしてその後、野中郁次郎などを通じてそれは帰納的なアプローチと、演繹的なアプローチの綜合である、仮説推論(アブダクション)として科学の世界では主流になっているものだと理解するようになり、非科学の世界ではそれは哲学を通じて止揚(アウフヘーベンである)と理解できるようになった。それをどのように手に入れていくかということもプラグマティックやシンタクティックといった観点で紐解いていけそうな、そんな雰囲気は掴んできた。

それは、視点を空ほど高いところまで持ち上げれば、未来予知とか、世界の原理原則に少しでも近づくもの、とかなるのかもしれないが、身近なところでは、明日のオレはどうしよう、という程度のことである。いや、実際には方法論に触れたところで、それを日常に組み入れるほど、オレは何かを達観したわけではない。教科書をみながらブツブツ暗記を試みている使えないロボット受験生と同じようなものだ。

要はまだまだだ勉強が足らないってこと。

*


理屈や価値観というものは、後天的なもので絶対的なものではない。
それは、あまりに近視眼で短絡的で、身勝手な存在で、そんなことに傷つけられたことが何回あるだろう。
いや、傷つけたことが何回あるのか、オレは気にも留めずに生きてきた。

そうして、少しでもほんとうのことを見る視点をもって生きることで、オレは少しまともな人間になりたいと思っていた。

現実には、そういうオレの態度は、それ自体がオレの価値観であるということになり、オレはこれ以上ない自己嫌悪に晒されることになる。

それは、諦めにも似た心境であり、オレに”人は自分以外のコンテクストをもって他人を理解することはできない”というある種の結論をもたらした。

それでも、オレはこうして前にもう一度進み始めて、やはり前へと進んでいきたい、と思っている。

多分、違うのだろう。
自分のコンテクストを持つ時点で違うのだ。

自分のコンテクストを捨てるところから始まるのではないか。

*


ブルカニロ博士が、ジョバンニに言う。

みんながめいめい自分の神さまがほんとうの神さまだというだろう、
けれどもお互ほかの神さまがしたことでも涙ががこぼれるだろう。
それからぼくたちの心がいいとかわるいとか議論するだろう。
そして勝負がつかないだろう。

けれども、もしおまえがほんとうに勉強して実験でちゃんとほんとうの考と、うその考を分けてしまえば、その実験の方法さえきまれば、もう信仰も科学と同じになる。

宮沢賢治がブルカニロ博士に言わせたように、一生懸命勉強して「ほんとうのこと」を知る方法を手に入れれば、それは人々が自分の神さま(自分の考えや価値観のよりどころ)が異なることによって争ったり、政治が異なることで争ったり、歴史が昔だったり今だったりすることで正しいことが180度変わってしまったりしなくなれるのだ。

なんで売春をしちゃいけないのか、とか、いじめられっこになるくらいならいじめっこになったほうがいい、とか、お互いいい思いをするのになぜ賄賂を渡しちゃいけないか、とか、オレはそういうことをわけわかんない次元で語り合うことについて、どうにもいたたまれない気持ちになる。

もちろん、オレがいつもそこまで崇高なスタンスでいる訳じゃない。
そしてオレは確かに、近代国家的、法治国家である今の日本という国のコンテクストをもってしか、これらのことに解を見だせない。

ただ、それに絶望しているわけでもない。

オレが仕事としてそういった正しさを導く実験を、例えば人のキャリア形成支援にあてがって、それで対価を得るのであれば、それはそれくらい具象的でなければならなくて、ある意味矮小化されたものでることは仕方がないことだ。

オレはそれを許しているし、それをどうにか乗り越えたいと思っている。
そして最近、その扉を開く鍵は芸術なのかな、と思った。
(それはまた今度)

正しさは、もともと知っている。自然としての体が。
そういうことを思い知らされるのだ。

ジョバンニが胸がいっぱいになって走り出したように、オレもいろんな感情をすべて抱いたまま捨てることなく、走っていこうと思うのだ。




宮沢賢治「銀河鉄道の夜」精読 宮沢賢治「銀河鉄道の夜」精読
鎌田 東二 (2001/12)
岩波書店

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そしていつかまた手放す
Sun.03.12.2006 Posted in γ
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人は
まっすぐにものを見る目を持って生まれ
後天的に獲得した斜めに見る目をもてはやし
いつかまた手放していく
ならば早くに手放した者勝ち
そうすることが難しいこの世ではあるけれど


*

バガボンドを描いている井上雄彦が単行本の中で記した言葉。

バガボンドは、吉川英治「宮本武蔵」をベースにしたマンガ。
主人公宮本武蔵が、故郷の村を離れ、数々の斬り合いを経て成長し、運命の佐々木小次郎と勝負の日を迎える過程を描いている。

武蔵が全国を流浪中、いずれ対決することになる小次郎と偶然接触した武蔵は、そこで重要な“気づき”を得る。それは何かと言うと、
「今まで(斬り合いに)勝ってこれたのは偶然である」「かつて自分は幼少の頃、自然のなかで、木々や風や水と一体であった」「それらはみんな同じでひとつのもの」「それはまさしく理であった」「どう振るか、どう斬るかは刀が教えてくれる(ことを思い出した)」といったもの。

かつて自分は「理」の中にいた。それなのに、それから自分を遠ざけてしまったものは何か。傲慢だった父や、自分を置いていった母や、受け入れてくれなかった村の者達か、、、
そしてそれは自分自身(の意識)であったことに気づく。


*

テレビで、人間の究極のセンサーとして、五感を発達させて生活している人を紹介していた。
例えば、目の見えない人が、クリック音(舌を使ってテッ、タッという発音)を発することで、目の前にあるものの距離、高さ、幅、質(硬軟)などを正確に掴み、健常者とまったく違わない生活を送っている例などを紹介していた。
他にも、言葉や文字に“色“がついて見える人などを紹介していた。
(その人によると、数字の5は黄土色、アルファベットのAはきれいなピンク色だという)

かれらがそういった認知をしているとき、脳がどのように反応しているかというと、例えば誰かの話を聞いているとき、聴覚を司っている部位のほかに、視覚を司っている部位も強い活動中の反応を示す。


*

うろ覚えだが、脳の一部分が何かの原因によってダメージを得て機能停止になるとする。例えば、そこが言語を司る部分だとすると、言葉を失うことになる。ただ、脳ではどのようなことが生ずるかというと、機能停止した部位(意識的な命令信号が届かなくなった部分)に対して、隣の部位機能が侵食を始めるのだ。
つまり、言語機能を司る部位の隣が仮に聴覚を司る部位だった場合、聴覚機能部位が、隣の元言語機能部位にまで侵食して広がり、結果として、その人は言語機能を失ったが聴覚機能を特異な領域までに発達させる、ことになる。


*

脳の大体どの部分が、どんな機能的役割を担っているか、近年の研究で明らかになってきている。ただ、それは絶対的なものではない。
脳は、役割分担をしつつも「全体であり、個である」フラクタル構造を持った存在である。つまり、聴覚を司る部分を切り取ってしまっても、それでもって聴覚が完全に失われるわけではなく、聴覚は脳のほかの部分が補おうとする行為によって、その機能は完全ではないが保たれるのである。
そもそも持っているその関係性によって、ある機能がどの程度の能力を発揮するかというバランスが決定され、保たれている。

個がそれぞれ発達して、全体が構成されているのではない。個はもともと全体性を兼ね備えており、それはすばらしい可能性を既に表現しており、むしろ関係性がそこに制御をかけている、ということなのか。


そして逆に考えていけば、「個で全体を見る」ことも可能であるのだ。DNAにすべての情報が書き込まれていることが言いたいのではなくて、手で聴いたり、耳で見たりして全体を機能さえる行為が可能だということだ。


オレはある種の能力開発に興味があって、こういうことを進んで知りたいと思っている。

能力開発の、ある種の正しさを掴みたいのだ。

*

その番組では、能力開発のいい事例も挙げていた。

フランスの香水師の方は、香水師の両親の後を継ごうと[21歳のときに]決意した。彼はその後、嗅覚を高める訓練を自らに課していく。その方法はこうだ。

400種類の基本の香りを記憶する。
その後、調合内容を秘密にした香水を嗅ぎ、400種の組み合わせをあてていく。
作品をつくるときは、まずレシピを作成し、その通りに調合する。できたものをテストし、イメージと違ったらレシピを直し、同じ作業を繰り返す、という。

人間の能力は、後天的に高めることができる。もっとも視覚を失った人も言っていたのだが、音で頭の中に地図を書いていく、それには過去の記憶情報が非常に大切である、と。ここでも基本400種の香りが、すでに記憶情報の中に入っていることが前提とされている。紹介された人は誰もがすばらしい記憶力の持ち主であった。

子供の頃、ピアノを習いかけたことがあるのだが、そこでの練習というのは、和音を覚えること。先生が引いた和音がなんなのか言いあてる、もとい聴きあてることだった。オレは基礎が全く覚えられず、2週間で辞めることになる。

ビジネスの世界が今、感性×××という表現をしているが、正確に言うと“感性”をもってして云々、ということではなくて、まずはこういうある種(機能利用による)の新しい能力開発の段階だということではないのか。

例えば、番組では今までと全く異なるアプローチで、例えば、カラダから発する匂いで初期の乳がんを発見する研究をしている日本企業を紹介していた。

そういうことなんじゃないのか。

その辺の、可能なら共通化できる能力開発方法論と、開発対象の新たな設定、そんなことを見つけていくことに携わることをオレは望んでいる(と思う)。


そこにあるサイエンス(ただしさ)を掴みたいんだ。


*

能力開発は、すべて後天的に身につくものを対象に行われることが基本だ。

それは人生を充実させることを目的としている。

充実?

それを解き明かすには、この寿命はあまりにも短い?

短い?



人間という個は、どんな全体を表現しようとしているのか。



オレが掴もうとしているもの、対象としようとしているものは、あまりにも矮小なものである?

それで結構でしょう、カミサマ?



そして、いつかまた手放す。


*

自分を取り囲むすべての環境、情報が発する「振れ」に共振することで推論し、、、ということをここ数ヶ月追っているが、自分の実生活に、となるとあまりにレベルが違いすぎる。それこそ述べてきたように、論理意識の世界、経営学の世界、文学の世界、芸術の世界といった進度の差もある。



現状において、考えるのを止めること、は死ぬことに等しい。



なんともオレは原始時代に生きているようだ。

いや、まてよ、原始時代は、、、オレは退化の過程を、、、



バガボンド 24 (24) バガボンド 24 (24)
井上 雄彦、吉川 英治 他 (2006/10/23)
講談社

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揺らす人、揺らされる人
Sun.19.11.2006 Posted in γ
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パナソニックセンターにある RiSuPia に、こんな展示物がある。

小学校の校庭にある鉄棒のような工作物に、紐で5,6個のボールがぶら下がっている。紐の長さは長いものと短いものがある。

↓こんな感じ。
furiko


この、ぶら下っているボールをひとつつまんで揺らす。ブランコのように。
そうすると、同じ長さでぶら下っているボールのみが同じように揺れだす。
長さの違うボールは揺れない。

これを「共振」という。


*

あまりきちんとした知識に基づいてないので書くのをまだためらうのだが、この共振の実験器具がひとつの現実的な我々の”自律モデル”のような気がしている。

自分で意識的に揺れるという行為ができる反面、他者の揺れに対して共振するように、人間はできているのではないか。


*

我々が意識的に”気”を出すことはできるとして、それ以外にも、つまりそれは呼吸を意識的に行う他に無意識にも行うことができるように、無意識に気を出したり、気を受けたりしていると考える。

”気”や”波動”や”オーラ”というものを(オレが持っている知見では今んところ区 別がつかないので一緒に扱う)通じて、人は相互干渉しながら生きている。

それどころか、おそらく人間が認知する、環境情報(この場合の環境というのは人間を取り巻く外部情報のすべて)とも相互に干渉し合うと考える。

直接的に接触することで、触覚のような刺激として脳に伝わるものもあるし、認知、という意味では視覚情報として入ってくる光の波としての情報、また耳などの器官を通じて入ってくる音の波としての聴覚情報、鼻などの器官を通じて入ってくる嗅覚情報なども、つまりは神経の、電気の”波”として干渉してくるわけで、ここにも無意識に揺らされる共振のモデルがあるように勝手に考える。


*

Sofia の西田社長が、人から出ている波動を感じる、と表現されていたのを思いだす。
波動を感じられる人は、干渉を受けやすい人でもあるだろう、と今ふと思った。

霊感、みたいなほうに話を振りたくはないが、そんなことよく聞くし。
朱に交われば、、、とか。

前に書いた、シンクロニシティ、とかにも考えが及ぶ。


*

共振を起こされる側にいるほうは、良い波からも悪い波からも干渉を受けることになる 。(実際には良い悪いなんてないと思うが)
そして恐らく”干渉”は、いくつもの独立した層で働いていて、それらが平行、競合の 関係にあると思われる。いくつもの層の干渉の結果として、折り合いがついた形の波動を纏って(まとって)いると思われる。


*

物理的な世界のイメージならば、10ピコメートルの電子の振る舞いが頭に浮かぶ。( もしかしたら、もっと100万倍程度微細な0.1フェルミ単位の話なのかもしれない 。)常に動き回る電子の核の内外に動き回る”反応”の結果なのかな、とか。

ああ、物理、勉強しておけばよかった。

まったく話がずれるけど、オレは文系に進んだことをたまに後悔する。
あの時には、自分の学ぶ対象の科目から国語がなくなるなんて想像できなかったから、単純に数学を捨てた。よく考えたら、文系でも数学受験はできたんだし。。。
今、基礎学問として学びたいのは、国語、数学、物理だよな。

オレが、後生大切にするであろう、繋げる、という概念も、いずれは物理的に説明がつくだろうな。


*

こんなことを、つい考えてしまったのは、ここのところの世の中の現象として、公共機 関の、例えば鉄道のダイヤの乱れがあちこちで同時発生して怒り心頭したり、同じようなことで逮捕される人が相次いでシラケたり、いじめが連鎖的に発生して涙がでたりし たからだ。

そしてそんなことはキッカケに過ぎなくて、以前から自分のフィールドで、同じような志を持っている人はいずれ知り合うのだな、と感じていたことがむしろ本線だ。



自分という球が自律的に揺れていれば、同じ長さでぶら下っている球が揺れだす。

まわりで揺れている球が、同じ長さでぶら下っている球ならば、自分も揺れだす。


*

従前のキャリア形成モデルは、それこそ”揺らす人”と”揺らされる 人”のニ元論によって成立していた。いや、今も成立している。

若い人はまだまだ揺らされる時期を過ごすだろうし、人を無理やり揺らす経験もするだろう。


オレには人を揺らすチカラはないな。

それにオレは自律的に生きる道を選んだから、つまり、自律的に揺れる道を選んだから 、それはつまり、まわりに意図的に、強引に揺らされる人をつくらないということ。


でも、ひとりでやっていけるとも毛頭思っていない。


共振できる、しかも良い揺れをもたらす、共振チームをオレは求めているんだな。

オレが自律的に揺れていれば、すべては自然にもたらされるんだろう。

それこそ自律分散型チームなんだろう。

ね!
モデルを捨てる日
Sat.18.11.2006 Posted in γ
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ボタンを押そうと人が考えてその行為を起こす際、実は体の運動プログラムが先に実行され、約0.3秒後に「ボタンを押せ」という指令が脳から出ているのだ、ということを前に書いた。

といってもブログに書いたという意味で、オレが言ったわけではない(当たり前だが!←オレ偉そうに書いちゃうから)

そのときには知らなかったが、別の本からこれは”アフォーダンス”のことなのだな、と最近つなげて理解した。

アフォーダンスというのは、アメリカのジェームス・ギブソンという知覚心理学者が唱えた理論で、今では主に人工知能の研究に利用されている考え方。


*

環境の中に実在する物体、物質、場所、事象、他の生物など、すべてのものは知覚者に対してなんらかの価値情報を提供している。
簡単に言うと、例えばここに椅子があった場合、椅子は「座る」というアフォーダンスを備えている。


部屋の中にある壁、床、椅子、絨毯、ガラス、さまざまな道具・・・。すべては読者に何かをアフォードしているはずである。床はそこに立つことを、あるいは歩くことをアフォードしている。壁はあなたの姿や声を、外の世界から隠すことをアフォードしている。椅子は座ることをアフォードするようにつくられている。椅子の本質は「座る」アフォーダンスである。すべての道具は、何か特定のことをアフォードするようにつくられている。アフォーダンスをピックアップすることは、ほとんど自覚なしに行われる。したがって、環境の中にあるものが無限のアフォーダンスを内包していることに普通は気づかない。しかし、環境は潜在的な可能性の「海」であり、私たちはそこに価値を発見し続けている。(佐々木正人著:アフォーダンス-新しい認知の理論)


ボタンは「押す」ことをアフォードしている。
それゆえ、人がボタンを知覚すると、先に体の運動プログラムが
実行され、、、という現象が可能になっていると思われる。


*

環境が提供する情報をどのように知覚して反応するか、生まれてからしてきたことというのはその”知覚システム”を鍛え洗練する、ということである。

車を見たとき、幼児と大人では車からアフォードされる内容が異なる。
大人であれば車を知覚した瞬間、その見え方の連続性、音の連続性から、スピードや自分の位置まで到達するまでの時間、避けないと危険かどうかなど多くの情報を察知する。


環境の中の情報は無限である。知覚システムは、動物がどのような環境と接触してきたかによってまったく個性的であり、情報の数に対応するように無限に分化しうる可能性をもっている。知識を蓄えるのではなく、「身体」のふるまいをより複雑に、洗練されたものにしてゆくことが、発達することの意味である。(同)


*

オレは、
①自分が過去の体験から知っていることや、今この瞬間に認知していることから、②価値観-あるべきと考えていること、によって”仮説推論”し、自分が次にとる行動を”自ら決定”していくこと
が重要であり、それをフラクタル化して行うことはすなわち”未来予知”的な行為であると考えている。

そして、そのような行為を、いかに実行し、やりきるか、そのことが”人の成長”のコアなストラクチャーだと確信している。

オレはあきらかに、このプロセスを”考えて行う”ことに重きを置いているわけだが、人間が持つメカニズム自体は、はるかに高度なものを備えているということだ。


*

残念ながら、頭(左脳)で論理的に考えることというのは、原始的な行為だ、と言えてしまうようだ。
うーんそれゆえ、「ハイ・コンセプト」や、「出現する未来」では、右脳的アプローチがとられていくシナリオなのかな。

しかしながら、”椅子”を見て、自分にあっているとアフォードされるレベルまで到達するには、かなりの椅子に接触した経験と、自分の快適さに対する理解が必要であり、それなりに高度な知覚システムを手に入れなければいけないということになる。

そのシステムの構築においては、万人に共通な方法論で斬る、というわけにはいかないから、その場合にはオレの商売上がったり、ということなんだろうか。


*

いや、むしろ、オレがとっている方法論は、リアリティの捉え方という点では、コンサルティング的なアプローチよりはるかに優位だと言える気がする。

既存のキャリア形成アプローチにおいては、自分が人生の設計者になり、その環境に関する地図を書いているようなものだ。
そして、起こるであろうキャリア・イベント、ライフ・イベントに対し、行為のプログラム化を前もって考えておくことを是としている。

これだと、すべての人生イベントに対して、それがどのくらいの確率で、どのくらいの条件で起こるかについて、どれくらい多く詳細に想定できるかで、成功不成功が左右されることになる。

そうではなくて、どのようにイベントに対応するのか、行為のプログラムは実際にそのイベントに際したときに決定されていくべきだ。
プランは地図によるのではなくて、イベントと向き合い意思決定することで”事後的に”決定されていくべきなのである。

これは、現在のAI(人工知能)ロボットの開発に生かされている考え方だが、同時にシャインなどのキャリア・トランジションの考え方(キャリア形成は、就職、挫折、成功、転職などのキャリアの節目に意思決定し決めていくことが肝要とする考え方、そのときに意思決定の軸になるものをキャリア・アンカーという)とよく似ている。(こんなこと言ってんのホントにオレだけだと思うけど)


*

さて、話を戻して、オレが重要だとしている方法論だが、これを左脳的アプローチ、すなわち、考えて成立させるのではなくて、ヒラメキや感性(この言葉は誤解を与えるが)で、オートノミック(自律的)に処理し、行為を制御していくことは可能なのだろうか。


モチロン可能に違いないんだが。


その解は、どうやら「おかれた環境に共鳴・同調する」ことにありそうだ。
ここで言っている環境、とは自然環境とか、社内環境のことではなくて、視覚情報、聴覚情報、嗅覚、触覚などから成り立つ外部知覚情報のことを言っている。

それがまさしく、論理系の協応ではなく、運動系の協応を可能にする、ということなのである。

知覚と行為の協応を研ぎ澄ますのである。
失われた人間の能力を呼び覚ますようなもんでしょうな。


*

運動系の協応が実現している例は、今のところスポーツ科学の分野で確認することができる。

例えば、いつもオレがメタファーとして狙っているゴルフ。
どうして、150ヤード先にある15センチ程度のカップに寄せるようにショットが打てるんだい。
その、ほんの小さなグリップを握る力や角度に対して論理系の協応で応えられるはずがない。

オリンピックの標準記録を持つ走り幅跳びの選手は、助走時に踏み切り直前の数歩は跳躍ごとに歩幅が大きくばらつき、踏み切り版の見え方によって(走る)行為が制御されていることが報告されている。ちなみに踏み切り前の数歩は、時速40キロメートルに近いという。


*

スポーツとキャリア形成はいくらなんでも一緒にしちゃだめでしょ。
そういう声も聞こえますが。


多分一緒。笑

いや、99.9%一緒。


*

行為の制御に利用されている視覚情報をタウ(τ)という。これは接触までの時間情報であり、例えば車がぶつかりそうになったとき、知覚対象から見えている視覚情報の変化から、ぶつかるという情報、加速度の情報、衝突がハードかソフトか、いつぶつかるかなどの情報を得て、ブレーキをコントロールすることが知られている。

これはつまり、アフォーダンスによる未来の予見ということになる。

オレも、転職までのタウを測っていたと考えてみる。


*

現状、原始時代なことを考えると、キャリア形成はマッピングがまだまだ有効であり、オレのように方法論的アプローチを唱えている者すら少ないのは事実だ。ここにおいてすらコペルニクス的転回が起こっていないのに、「認識→解釈→意思決定→実行」というプロセスを制御の流れとせず、情報レベルのインタラクションにより行為を制御していくべきだ、とはとてもいいがたい。

オレが科学者だったら、まっさきに学会から抹殺されるだろうね。
ユングやフロイトのように!?(笑)
いや新たな真理を説いて追放されていった数学者達のように。
なれたらかっこいーが。。。
(こんなこと言ってるのがすでにかっこつけすぎだが)

*

とにかく次は「共鳴と同調」これだね。
ま、オレはリアリティを追及したいタイプだから、無理はしませんが。

あ、なんかこういうこと前にも書いた。

日記のほうかな。




アフォーダンス-新しい認知の理論 アフォーダンス-新しい認知の理論
佐々木 正人 (1994/05)
岩波書店

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ふたつをつなぐもの
Wed.27.09.2006 Posted in γ
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瞑想の本を読んでて、ちょっと手を止めた。


腕や足は自分の意識で動かすことができる。
でも、心臓や胃などの内臓は意識して動かすことはできない。

しかし、その中にあって、呼吸筋というのは非常に特殊なコントロールが可能で、無意識と意識の動きが両方存在する。

我々はみな、自分で作り上げた自我の意識というものを持っている。
その意識の外側に、心臓の鼓動とか胃や腸の動きとか、免疫系の動きとかがある。

それを含めて自我だと捉える人生のレベルを「ケンタウロス」という。
今の自分の状態は「自我が体をコントロールしている」という風に信じているが、それはまったくのウソなのである。

ケンタウロスというのはギリシャ神話に出てくる、上半身が人間で下半身が馬の姿をした架空の動物。
心と体が一体になった状態を架空の動物に例えてケンタウロスというのだ。

そこまでいくと、心と体の違いがなくなってくると言われている。
(宇宙の話、宇宙では物質とエネルギーを同様に扱う、って話を思い出すだろ?)

逆にケンタウロスに達していない人は、ちょうど騎手が馬を操るように、心が体をコントロールしようとしているのだ。


まさに呼吸というのは、「意識」と「無意識」のふたつの世界を繋いでいる。


*

頭にぽろぽろ浮かびだす。メタファーオタクゆえに。笑


*

前意識 (ぜんいしき,ドイツ語:Vorbewusste) は、フロイトの精神分析に由来する深層心理学の概念で、通常は意識に昇らないが、努力すれば意識化できる記憶などが貯蔵されていると考えられる無意識の領域である。

無意識の領域に存在すると考えられる記憶や感情、構造は、通常、意識に昇ることはない。
それ故にこそ、それらの記憶や構造は、「無意識である(気づいていない,unconscious)」と言われる。

しかし、確かに知っていると思えるが、具体的にどういうことであったのか思い出せない記憶とか、知識などは存在する。
思い出そうとする努力を通じて、そのような記憶や知識が意識に甦り、思い出されるという経験も多数ある。

あるいは、まったく忘れ去っていた、またはそんな経験などしたこともないと思っていたことが、思いがけない何かのきっかけで記憶に甦り、思い出すと言うようなこともしばしばある。

無意識(Unbewusste)の領域にあったと考えられるが、何らかの努力や契機において意識に昇るような記憶や知識、感情等は、「意識の領域」と「無意識の領域」の両方の領域に存在することになる。そこで、このような「心の領域」の特定部分を、「前意識の領域」と称し、略して、前意識(Vorbewusste)と呼ぶ。
(Wikipedia)


*

「呼吸」

「前意識」

それらが、ふたつの世界を繋ぐものならば。
意識と無意識を繋ぐものが、「呼吸」であり「前意識」であるならば。

同じように、見えるものと見えないもの、両方を見ることが「半眼」であるならば。
(※仏像の目は半分は外(の世界)を見、そして半分は自己を見つめる、あるいは目には見えないものを見る。)

「ある」ものと「ない」ものを繋ぐものが、(色即是空における)「空」の概念ならば。

できることとできないことを繋ぐものが「メタファー」や「アナロジー」の駆使ならば。


それらを繋ぐものがある。

それを「わかり」「感じる」ことができれば、とオレは思っている。


*

繋ぐものがない世界は。

例えば、「測れる物」への執着は、繋ぐものがない社会観をつくりあげている。

経営者の多くの致命的な失敗は、測れないものは管理できない、測れるものによって管理するのだ、という誤解による。



オレは同じような罠に落ちていまいか。


*

ふたつの異なるものを繋ぐにはどうしたらいいか。

弁証法では、正反合という概念がある。
正(ある命題=テーゼ)と、反(それを否定する命題=アンチテーゼ)を綜合(シンセサス)することでより高い次元の真実に至る(止揚[しよう])展開をいう。


(この3週間にオレは何回「止揚」という文字を打っただろう!)


そうだ。繋ぐものが大事なのだ。


*

関係は物質より本質的である。

そして、本質的な存在は、「個」であり「全体」である。

*

たとえばアメリカの社会学者(哲学者でもあった)ミードは次のように述べている。

「もしもコミュニケーションが完全におこなわれ、とことんまで遂行されたら、個人が、その人の遺伝という可能性の枠内でできるかぎり高度に発達でき、さらには自分が影響を及ぼしている他人たちの態度にまで参入できる。

そこではすべての人が共同体内に自分が呼びおこしたことを知っている反応を自分自身のなかにいだくだろう。
こうしてコミュニケーションは、意味深長な意味でその共同体における組織化過程になっていく。
それは単なる抽象的シンボルの移動過程ではない。
それはいつでも、他人たちのなかに呼びおこすのと同一の行動傾向をその人自身のなかに呼びおこす、社会的行動としての身振りである。」

*

ならばインターネットはどうか。
個であり、全体ではないか。

量子はどうか。
素粒子を100個の穴をあけた壁の向こうから素粒子を飛ばすと、すべての穴を通ってこちらへ来る。
素粒子は「ひとつ」であり、「たくさん」である。

地球はどうか。
個であり、全体か。

宇宙はどうか。
個であり、全体か。

心はどうか。
個であり、全体になれるだろうか。


*

頭がいかれちまった、今日は。


↓天外さんはソニーで執行役上席常務を務めた。AIBOを企画開発した人。
宇宙の根っこにつながる瞑想法 宇宙の根っこにつながる瞑想法
天外 伺朗 (2005/03)
飛鳥新社

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胸をはる秘密!
Tue.26.09.2006 Posted in γ
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オレが合気道をならっていたのは意外と知られてますが、(知られてないんじゃないのかい!笑)合気道をならうと確実に「気」の存在を疑わない。

ところが、サイエンスでは何も教わらない。
これはどういうことなんだ。

ないのか?

あるのか?


*

ある日、深夜にNHKで高校生むけの理科の番組の再放送がやっていた。

ぼーっと見てたんだ。
そしたら、大学の先生が、言ったんさ。

「君たち、宇宙は何でできているかしってるかい?」

ドキッとして、慌ててペンをとりましたさ。

だって、宇宙って何でできてるの?


*

先生の言うことには、宇宙は「なんだかわからないけれど、なんかエネルギーがあって、それは暗黒エネルギーと呼ばれてるんだ。それが宇宙の73%...」

アンコクエネルギーっすか。

先生曰く「残りのうちの23%はなんだかわからないけど物質があって、それは暗黒物質といわれている...」

アンコクブッシツっすか。

「そして残りの4%がようやっと我々が知ってる水素とか窒素とかなんだよね。」

たった4%っすか!

「不思議と思ったかもしれないけど、宇宙ではねエネルギーと物質は同じ計測できるものとして考えるんだよ。」

エネルギーと物質を同じ土俵の上で捉える...ほほー!


*

オレは、深夜のNHKに震えた。

カミサマ、コレッテ人間ノコトジャナイッスカ?!

オレがもともと「フラクタル」や「メタファー」オタなのはカミングアウト済だが、それ故オレはこの番組を見てスーッと理解できたのだ。


「そうでしょ!人間はエネルギーでできている!」


*

人間の70%は水分?

ばかたれ~い!人間の70%は、まだなんだかわかってないエネルギーなんじゃい!

そして、なんだかわからないけど、カラダの中を流れている物質が残りのうちの20%を占めるんじゃい!

水分とか、たんぱく質とか、そんな「今の時代で確認できる普通の物質(これをバリオンという)」は、たかだか10%にすぎないんじゃい!

と、オレは間違いなくメンチ斬るだろう。


「つまりオレは、コミヤエネルギーのかたまりなんじゃい!」


*


そう考えると、なんだか「気」も人の「気配」も「オーラ」も「魂」も「心霊写真」も「幽霊」にもサイエンスが与えられる気がしてくる。

「人の意識には質量があると思うのよ。それが発見されてノーベル賞が与えられたら、オレが先に言ってたと証言してくれ~~ エヘヘ。」

と、今まで酔うとよく人に言ってきたのだが、本当にもらえそうな気がしてきたというもんだ。


*

「気」が存在することを我々は体験的に知っている。

落ち着いている、というのは「気が」体(の丹田に)落ち着いているのである。

同時に「あがっている」のは「気が」頭のほうにあがっている、ということ。


人間は傷つくと「手当て」をする。

手のひらにある、労宮というツボは、最も気を出しやすく、また気を感じやすいツボである。


また、胸の中心にある膻中というツボは、感情を受けとめるポイントである。

手を胸にあてる=労宮を胸の中心の膻中にあてる、というのは自分で感情を受け止める自分癒しの方法でもある。


気があがってくると興奮に、下がってくると沈静になる。

両手を大きくゆっくり後ろ回しすると気持ちが高揚してきて、ゆっくり前回しにすると落ち着いてくるらしい。

これも、自分で自分の気を動かしているからだろう。


*

つまり、オレは今日、どこかの怪しい人よろしく「宇宙の構造は、人間の構造のメタファーである」と言ってる。

メタファーって言うか、例えてるのは現代人がまったく2者に関係性がないように感じているから例えば、という表現、すなわちメタファーを駆使してるわけで、そもそも同じなんだ、フラクタルなんだから同じなんだ、という風に捉えるほうがイケてるように思う。

オレはよく「意識と行動」って表現をするわけだけど、もう少し自分視点に下げてくると、「意識と姿勢」っていうのも同じ構造なんだと思う。

子供の頃からの猫背が、オレの人間形成に(見かけ以上の)少なくない影響を与えてきたのだろう。


これからはそうはいかないぜ。

胸を開いて、姿勢を正していこうと思うわけだ。

(前にもこんなことどこかに書いたな。ま、いっか。)


なにはともかく無意味に胸をはれ、オレ!


恋愛のサイエンスに悩む
Sat.16.09.2006 Posted in γ
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9月になってはじめてのブログだ。

なんでこんなに時間が開いたかというと、内職でコラムを書いたり、「講」のことを考えたりしてたから。

今日も「講」の準備を(名目上)しているのだが、なかなか気分も乗らず、、、この時間でもまだフレームに対してどう肉付けするかが見えてこない。解決策のシナリオなし。言ってみればまだ骨しかない状態。それで、ブログを書きながらもう一度整理することにした。

あたりまえだ。

テーマが「恋愛」だなんて。(笑)

恋愛に科学方法論を持ち込むなんて、しかも横手間にやろうなんて、オレも甘いな~と。


でも、どうにかなるさ。とか思って気楽にしてみたり。


しかし、このテーマ、考えるほどに広範に思いが及ぶ。
関連する科学の項目も果てしなく広がるので、3時間で骨格を表そうと考えるとまた難しい。


*

科学が「なに」(What)と「なぜ」(Why)に答えることだとすれば、恋愛とは何か?なぜ恋愛が存在するのか?というものに答えていくことになるのかもしれないのだけど。

「講」がやりたいのはもちろん恋愛哲学じゃなく、答えの出ない自慰問答でもなく、イデオロギー作りでもない。


単に恋愛を科学で斬って斬り捨てたいのだ(笑)
(※特に怨みはない)


*

で、リアリティを捉えるために、今日は敬愛する今田高俊先生を参考にしたりして、自分が続けてきた方法論に当て込むことを考える。

主体を自分に置き、まず主体の行動と意思決定のベースを見出し(自己認知)、それを帰納的アプローチの礎とする。つまり、自分を知って、自分の求める恋愛仮説を立てるわけだ。
よって帰納的アプローチに関しては、自分を振り返ればいい。
そこから自分の恋愛の傾向、共通項を拾い出し、仮設の材料とする。


で、次は演繹的アプローチ。具体的で、利用しやすいものを使えばいいだろう。
自分の恋愛におけるタイプや価値観を理解できるものを用意しよう。
ここも、具体的な準備をすることはさして難しくない。


さて、通常ならこの前者と後者をもってして、”例のY型モデル”に当てはめて、アブダクション(遡行推論)を試みることをしたいわけなのだが。
(※前回の未来予知も、前々回の宇宙レストランも、そのアブダクション自体については他者がすでに作成済のものを見、”楽しむ”ことで終わりにしている)
(※※例のY型モデル=就活予備校ではこのように使われた

今回はそこら辺で思考がいったりきたりしているのだ。
板橋的に言えば、ここの落としどころについて”神が降りてこない”。(苦笑)


*

無理しないで、経営の3Cと同じ斬り方で、自社(Company)のベクトルを顧客(Customer)に向ける。
すなわち「自社の思いを顧客のニーズに摺り合わせる」というロジックをメタファー展開し、「主体の想いを恋愛対象の想いに摺り合わせ」ればいいのかもしれない。

ただ恋愛の場合、あたり前田のクラッカー(?)だが、パートナーという個の存在が際立ってアポジション(同格)なわけで、これをできれば含めて斬りたい。
よって例の”Y型モデル”はふたつ存在し、改めて、自分で立てた自分の恋愛仮説Aと相手の立てる相手の恋愛仮説Bの摺りあわせが発生する。

そこで摺り合わせ用に、ひとつ高次の”Y型モデル”を用意することになる。


*

ステップ的に重要なのは、2つの仮説の存在について、新たな解をどう導くか、だ。
”2つの存在”について、”×かける”なのか”+たす”なのか、とかな。”-引く”ではないだろ?

通常、まず自分の仮説に意味解釈を正しく加えていくとして、参与観察やエスノグラフィーを用いるんだろうが、さて、どうしよう。
相手を見抜く、という意味では、それこそ心理学的手法の応用とかいろいろあるわけだけれど、心理学のクイズをするのも「講」っぽくないからな。カウンセリングで学ぶ”傾聴”技法とケーススタディが参与観察的役割を果たすことにすればいいのかな。
それが統合された2者の恋愛仮説Cのヒント。

で、やっぱり基本に立ち返って”Y型モデル”で考えて、自分の恋愛仮説Aを今度はスタートポイントにして、統合された2者の恋愛仮説Cに向かってベクトルをつくるわけだな。

つまり、方法論から考えれば、自分の恋愛仮説Aをそのまま対象に受け入れてもらうとか、その逆とか、単純に”+たす”とかじゃないはずなんだな。

(ここでちょっと現実の恋愛における「私の気持ちなんか知らないくせに!」なんてよくあるセリフが聞こえてきそうになる。そうじゃないんだよな。)

そして自分の恋愛仮説Aが、2者で共有できる恋愛仮説C、言ってみればスーパー恋愛仮説Cに行き着くには、自分の恋愛仮説Aについてメタファー的展開をして有限から無限を作って摺り合わせたり、恋愛仮説Aと恋愛仮説Bをメタ統合したり、究極のアウフヘーベンを展開したりすればいいわけだな。

そしてそれは恋愛対象から見ても同じである、と。


*

さて、それでも問題はまだあるぞ。

例えば、勝つための方法。
それはまたやればいいか。いいよな。


*

いや、まだあるぞ、すっげーでかいのが。実は本丸だったりするのが!

それはつまり、アプリオリの世界を入れるかどうか、な。

語らないと結局は納得感ないかもな。
恋愛なんてプラグマティックに斬らないと納得感ないよな。


恋愛は、フィーリングってね。
感性は、、、感性はどうするか。

「私、毛深い人は駄目なんです!」とかな。

メタファー的展開をするとさ、、、「オレのことはクマだと思ってくれ!キミは動物大好きだし!」みたいな解決とかな。
アウフヘーベンするとさ、、、「オレも二重まぶたが好きなんだが、好みと違うのはお互いさまとしてこだわるのはやめよう!」みたいな?いや「オレも脱毛して、お前もプチ整形してお互い満足しよう」とか?恋愛する前にそんな話あるわけねーし。わかんね。


乱れてきた。。。


*

っちゅうか、そもそも、実際の恋愛がアブダクションから入るのは間違いないよな。
その順序でワークを考えないとブレるってことか?

恋愛のアブダクションは、瞬間にくるわけだ。ビビッときた!みたいな。

しかしそれはあれだぞ。恋愛対象にはまったくもって無関係だ。

だから、自分サイドの”Y型モデル”をつくるときだけに関係するわけだな。


そのアブダクションは、往々にしておおらかで、自分勝手でわがままで、創造性に富んで、感性的だ。

それを演繹的に遡行するよな。帰納的に遡行するよな。
遡行してOKだったら、GOなのかな。

セオリー的には”相手との摺り合わせを始める条件として”GOだよな。


*

するってえとなんだな。

お互いにビビッときた日には、なんだな。そっからお付き合い始まってしまった日には、、、
そりゃーうまくいかないことも多々あるわな。

セオリー的にはその後、越えなきゃいけないハードル、随分あるってことになる。

ま、でも、、、

それが”恋愛”でもいーじゃない。文句あるの?!
って言われたら、、、


文句ないです、ハイ。


*

落ち着こう。

オレが考えてるのは、「講」のコンテンツなのだ。
オレ自身の恋愛哲学の構築ではない(笑)

合う人、合わない人がいる、という概念に異を唱える人はいないだろう。
ちゅうことは、いずれ必ず”もっと自分に合う人を探す”アプローチは発展する。

そしてそれは、科学のファンダメンタルズを当然内包しているだろう。


*

そんなこと考えてたらつまらなくないですか?
いずれパソコンで、自分に一番適当な人がコンピューターではじき出されちゃうんじゃないですか?

なんて言われそうだ。


大丈夫。オレがどんなに頑張っても、科学に追いつくことなんてできないから。
身勝手な言い分で恋愛に傷つけられたとき、相手がどんなに身勝手か、それが客観的にわかれば少しは報われるだろ?(苦笑)

オレは報われるぞ。(超苦笑)


*

それよか、勉強不足だ。
それをいたく痛感した。

今回のブログは、意味わかんないかもな。
かもな、じゃなくて意味わかんないよな。(笑)

でも、来週は大丈夫!骨格さえ決まれば、コンテンツは楽しくつくります。

楽しみましょう。

ブログも次回はもっとわかりやすく!

セレブ経済、コミヤコウ流
Sat.26.08.2006 Posted in γ
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今日はエゲツナイけど、カネの話からしようと思う。

今、盛んに、政治家が(所得)格差の話をしてるじゃないか。
それが次の総理大臣選びまで影響しちゃうような。


はっきりいって冷めるわけよ、オレ。

格差、なんて縮まるわけないジャン。
勉強不足だよ、ソレ。


もしキミがIT業界にいて、マァ、オレの知り合いだからIT業界関係が多いと思ってそう書いてるんだけど、もしもオレと同じように気持ちが冷めなかったら、キミは勉強不足だ。もっとガンバレ。

IT業界ってスバラシイ、って度々言ってるの、マジなのですよ。
本当、勉強になる。


「所得」格差の広がりは、インターネットの「リンク」の広がりと同じ構造。
所得格差は、自律的ネットワークと同じような分布の仕方を見せているに過ぎないわけでしょ。
規制の緩和が進んで、個人間の「所得」の差は、自律的に成長しちゃえる状態にあるってことだね。

*


インターネットの「リンク」の広がり(分布)について一応書くと、まず「不平等」だということ。
つまり、少数の金持ちが大半の所得を占めている状態。

あるサイトを思い浮かべるじゃん。
そのサイトは、皆から見られる価値を持っている。
だから、多くの他のサイトからリンクを貼られている。Yahoo!なんかがそう。

サイトとサイトを、ネットワークが繋いでいる。
言ってみれば、ネットワークという線を、サイトという点が繋いでいる。
こういう、繋ぎ目にあたる「点」をノードという。

ネットワーク上にあるノードが持っているリンク数について考えると、当然、Yahoo!みたいな誰もが知っているサイトには皆リンクを張りたがるから、結果的にYahoo!というノードは、超ウルトラスーパー級のリンク数を持っていることになる。

一方で、リンクなんか貼られない、無数のノードがインターネットには存在している。
この、「リンク数」がまさしく、所得の「格差」の構造と同じってわけだ。

*


これはベキ法則と呼ばれていて、グラフにするとちょうど反比例のグラフみたいになる。

つまり、超ウルトラリンク金持ち父さんと、スローライフ、スロー収入のスロー父さんに分かれるわけだ。
日本人の年収は平均500万ちょっと下回るくらいだったと思うけど、それはその額の収入を得ている人が日本で多いことを物語っているわけではない。

むしろ、その辺はいないんだよ。理屈から言えば。

それはまさしく、格差社会だっていうわけだ。
格差社会になるなんて、ネットワークを学んでいる人達は、もう3年以上も前に知っていたんだ。

*


それだけじゃなくてさ、WEB2.0について学ぶなんてことはさ、最新の経済学を学んでるってことだよ。

素晴らしいぜ!

http://internet.watch.impress.co.jp/static/column/web20/2006/03/06/
WEB2.0のことは、↑がわかりやすいよ。


メルマガで情報起業する人が、ちょっと前に一杯いたけど、アレで成功するモデルというのは、まさしくスケールフリーのロングテール利用型ビジネス(ロングテールとは、先の例で言うと「リンクなんか貼られない無数のノード」のこと。言葉がわからない人は参考のリンク先を見てね)。amazonばかりがロングテールの成功事例のように言われているけど、周りにも充分成功者はいるな。気付いたか、そうでないか。

今日のタイトル、早速ずれてきたな。
IT業界と経済予測、みたいな、?

*


さて、じゃあオレはどうするのか。フフ。
オレも自分の仕事のドメインやビジネスモデルを設計するときに、グローバリゼーションという名の下に、自律ネットワーク型社会の荒波に、勝負を挑んでいくのか?!


お、今日のタイトルに戻すんだね、オレ!
ベキ法則とか、スケールフリーとか、WEB2.0とか、ブログに書いてるとチカれるから、いい加減にまとめて今日のブログは終わらすのかと思ったよ(笑)


言っちゃうんだね?(←自分突っ込み)

*


オレが考えている、利用できそうな作戦は2つあるよ。

ひとつはもちろん、ロングテールを生かしていくこと。ロングテールはさ、「労力かけちゃいけない」よな。

もうひとつは、経済評論家の内橋克人が唱えている「共生経済」をヒントにしたビジネスモデルを構築していくことだ。
この辺、オレの嫌いな政○に利用されてたりもするので、誤解を与えたくないからとぼけるけど、要はオレは「鎖国」すればイイと思うわけよ。(チカれてきたから説明が一言で終わってる!)


今日はココまでにしちゃおう(笑)



自分の足で立とうとしてる人、興味あったらこの先一緒に考えようぜ。



勝つためにさ。


(参考になるサイト)
「新しい地域発展論-ベキ法則下での地域の生き方」
http://www.can.or.jp/archives/articles/20030527-01/index.html


(参考になる本)
新ネットワーク思考―世界のしくみを読み解く 新ネットワーク思考―世界のしくみを読み解く
アルバート・ラズロ・バラバシ (2002/12/26)
NHK出版

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「共生経済」が始まる―競争原理を超えて 「共生経済」が始まる―競争原理を超えて
内橋 克人 (2005/01)
日本放送出版協会

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シンクロニシティの意識的活用に向けて
Thu.17.08.2006 Posted in γ
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”最近どうしてる?”

オレにも子供の頃からの信頼できる親友がいて、今アメリカにいるのだが、オレがもうこれ以上はシンドイってくらいに本気で凹むと(それって1年に1度くらいだとして)、必ず連絡が来るのである。


*

普段生活しているときに、こんな風に、「関連性があっても」「因果関係があるわけではない」現象が起こることはめずらしくはない。

かの心理学者カール・ユングは、そういう偶然の一致のような現象を一般化して「共時性~シンクロニシティ」と名づけた。


ユングは、全てではないにせよ、いくつかの偶然の一致(coincidences)は単なる偶然ではなく、文字通りの「同時発生(co-inciding)」か、あるいは普遍的な事象を作り出す力の連続性によるものであると信じたのである。

そして、これらの力により、直観的な意識と行動が調和する過程を、ユングは「個体化」と名づけた。

集合的無意識による、個体化された人間の意識のコミュニケーションを通じて、現実の出来事が形成されるというのが、ユングの主張であった。(参考:Wikipedia)


*

共時に向かう動き、これは特徴や規則性が著しく近しい同士の間においては、「共時的」よりも、もはや「同期的」という形で観察されることが多い。

例えば、自然界には多くの同期的なシンクロニシティが見られる。

科学雑誌「サイエンス」には、ホタルの群れの光が同期して点滅する現象に関する論文が掲載されている。
ホタルをホテルの部屋に(シャレじゃなくて)持ち帰った生物学者によると、最初はバラバラであった光の点滅がやがて同期していく様子が観測されたという。

他にも、一匹の猿がはじめた「サツマイモを洗う」という行為が、群れ全体に定着し、臨界点に達すると、海を越え、遠く離れた別の群れの猿たちも同じ行動をとりはじめる「百匹目の猿現象」もこれに近い。


今では研究の結果、どうやらシンクロニシティという、ものごとを同期に向かわせる傾向は動物や人だけでなく、宇宙など無機物にもあるとのことだ。この辺が非常にオレの興味領域に入ってくるわけで。


*

実はシンクロニシティを科学技術の世界で応用することは、もう随分前に始まっている。

例えば、インターネットをインフラ面で支えている光通信ネットワークやCDプレーヤーなどで使われているレーザー光がそうだ。レーザーでは光の位相を同期させることによって、通常の光では得られない特殊な性能を発揮することが可能となる。
またシンクロニシティ(同期)とアシンクロニシティ(非同期)とを組み合わせることによって、新たな展開が開けた例もある。
電話のネットワークはすべて同期することによって成り立ってきた。電話利用者の立場にたって考えれば、お互いに同じ時間を共有しなければ会話が成立しないのは当然のことだし、ネットワークインフラの立場においても大量の通信を同時に処理するためには、ネットワークの同期化が必須であった。ところがインターネットは、こうした同期の概念を覆した。
メールは相手と同じ時間を共有しなくてもコミュニケーションが成立する非同期の世界である。
インターネットのネットワークも基本的には非同期だ。
我々はこのように同期と非同期とをうまく使い分けている。
(アビームコンサルティング株式会社顧問 宮永氏による)


*

人の意識や行動には、例えば多元発生的「流行」のように、シンクロニシティが作用している。

また、小さなレベルでこれを意識的にコントロールできるようになれば、例えば特にチーム行動において、インターネットの世界のように、意識的に飛躍的なシナジーを得ることが可能だと考えられる。


チャーリーン・ベリッツは「パワー・オブ・フロー」という本でそれを説明している。
ミハイ・チクセントミハイのフロー理論がこの元になっているのだが、SONYでAIBOを開発した土井忠利さんは、SONYのAIBO開発チームがにはまさしくそうしたシンクロニシティがもたらされ、集団でフローの状態になっていたと著書「運命の法則」に書いている。


この辺りには、オレの働き方の理想が埋まっている。

また、個人の世界で言えば、この共時への動き、というものが、「経験の点を”繋げる”行為」において、ある重要な役割を担っているように思える。すごい大事なことだと思う。あらためてフォーカスしたい。


*

量子力学を拓き、「パウリの排他律」で知られた物理学者ヴォルフガング・パウリは、睡眠薬を多用し病を患う。
そのときパウリの治療にあたったのがユングだった。

ユングはパウリと共同研究を行い、『自然現象と心の構造-非因果的連関の原理-』という本を著す。
それがまさしくユングがシンクロニシティを語った本だ。

それを日本語訳したのは、臨床心理学者で京都大学名誉教授の河合隼雄だ。


河合隼雄の箱庭療法の読書経験があったことは、オレがキャリアの世界に足を踏み入れるときに、その心理学的な繋がりから、自分の興味領域の選択の正当性に根拠をつけてくれた。




その河合隼雄が今、脳梗塞で倒れたとニュースが告げている。


オレは今日、シンクロニシティについて、書いている。








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運命の法則―「好運の女神」と付き合うための15章 運命の法則―「好運の女神」と付き合うための15章
天外 伺朗 (2004/11)
飛鳥新社

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デザイニング、キャリア・デザイニング
Sat.12.08.2006 Posted in γ
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オレの本棚で、文芸書を除いてもっとも古く手に入れた部類の本に、電通が発行した「デザイニング 新しい発想と方法論」がある。初版は1986年、今から20年前だ。多分オレが手にしたのは大学1年か2年だ。(※それが20年前ではない。初版が20年前なのだ。念のため!)あまりにも刺激的だったから、ずっと持っている本なのだ。

本の中で、10数名のクリエイターが、「新しい発想と方法論」について書いている。


今日、不要な本を整理していて、懐かしくてこの本を手に取ったんだが、、、


パラパラとめくってて、、、


そして、ビビッた。


おいおい、これ、20年前の本だよね。
こういうときは1人で笑うんだろうな、思わず、そんなことを思った。

オレ、今同じこと話してるジャン。
大学生のオレ、鉛筆で線まで引いてるよ。(無論、覚えてない・笑)

*


「デザイニング」の最後のほうで、当時筑波大学講師だった星野克美先生(現・多摩大学教授)が、「創造的発想のテクノロジー -記号論的マーケティングの提案」という原稿を寄せている。

それは、客観的検証の世界に留まっていたマーケティングに、創造の科学、創造の技術、という観点を与えようとしたものだ。

先生は、「記号論」がそれを可能にするひとつの有力な手法であるとして以下のように書いている。

*

最近、マーケティングでは発想やひらめきが重要であると言われ、いわば右脳的マーケティングの手法が求められているが、記号論という科学は発想やヒラメキのプロセスを技術的な手法に変換することができるという点で、そうした要請に応えられるものである。
・・・略・・・
シービオク夫妻(※1)は、・・・パース(※2)の所説を引用しながらそのことを暗示的に述べている。
「推測(abduction)」とはいわば”当て推量”、”当てずっぽ”といわれるものなのだが、それは”自然の光(illumenaturale)”ともいうべき神から与えられた本能的行動なのであり、未知なるものや未来的なことを予見する上で不思議に威力を発揮するのである。
・・・略・・・
このことについてパースは、”人間の行う当て推量を、とても単なる偶然では不可能なほどよく当たるように仕向ける、何らかの内なる光がもし存在しなかったとするならば、人間は生存競争を生き延びる力をまったく欠いて、とっくの昔に絶滅してしまっただろう”といい、また”推測は人間と創造主の間のコミュニケーションであり、この神聖なる権利を活用しなければならない”と述べている。
・・・略・・・
そして専門家たちの推測的行為に共通しているのは、まず対象とする事象についてのきわめて深い観察が前提になっていることであろう。
また、推測的行為に共通しているのは、証拠であれ症状であれ、いずれにしても対象とされる現象の有徴的なもの―「有徴記号(marked sign)」が本能的に嗅ぎとられ、それと同時にその深層に隠された意味が瞬時にして、あるいは深い思索の末に解釈されるということである。パースは、”仮説を抱くとは洞察(insight)を持つ行為であり、推測による暗示は稲妻のように頭にひらめくのである”と述べている。
・・・略・・・
推測とはこうした人間の本能的能力の働きを意味するものであり、記号論は認識論的な一面で推測のメカニズムを解明する科学として演繹と帰納の科学の基盤をより確固にするために必然的に生まれてきたものである。

※1シービオク夫妻 …「シャーロックホームズの記号論」を著した夫婦の研究者
※2パース …チャールズ・S・パース 記号論の祖の1人 よくオレも言葉を引用する

*


なんとまあ、今オレがキャリア形成において、他人に語っていることが、マーケティングの世界では20年前に語られていたんだね。(繰り返しだけど、「デザイニング」は1986年に発刊されている。)

しかも上記以外の文章の流れでいうと、芸術の世界ではもっと早くにこうした構造化が試みられていたと読み取れる。

>芸術>経営>キャリア形成なのね。

*


そういえば、大前研一が翻訳、ダニエル・ピンクが著した「ハイコンセプト」では、これからはMFA(Master of Fine Arts)すなわち美術学修士こそ、新しいMBAなのだ、と相当なページ数を割いて書いている。

ここに至っては、著名なキャリア理論の先生も、僕の敬愛してやまないN先生のイノベーションの創造も、さして新しい何かを提供されてはいないんじゃないかと、ちょっとテンションが下がってもみる。

*


「デザイニング」に戻って、星野先生は「創造的認識行為の一般モデル」について説明をしている。

それは一般に「意味解釈」と「記号生産」の、2つのプロセスから成り立つとしている。

「意味解釈」はさらに、以下の2つの過程に分けられる。
1.記号観察 : 意味解釈にいたる前に、まず記号を観察し、有徴記号を収集する。
2.意味解釈 : 「推測(abduction)」という方法によって行われる。

そして「記号生産」もさらに以下の2つの過程に分けられる。
1.意味生成 : KJ法など既存の意味分析(KJ法などは有効活実用的である)を行った後、その意味を差異化する新たな意味を推測する。いわゆるコンセプト開発に相当する。
2.記号生産 : 新たな意味を体化した記号を生産する。「意味」としてのコンセプトから「形」としてのモノを開発する過程。マーケティングにおいても、「比喩」や「異化」の方法が芸術的創造行為のように無意識的にとられている。

*


来たよ。ビンゴでしょ。

「比喩(metopfer、メタファー、本の中ではrhetoric、レトリックだったが)」、出てくるだろうな、と思って読み進めたら、やっぱり出てきたよ。

「異化(defamiliarization)」という言葉も当時よく目にした。
オレはもともとは大江健三郎の文章の中によく見た。芸術 → マーケティングへdivertする中で、それは「差別化」として使われていったと思う。

*


勉強すべき方向性は、こうやって手に入れたほうが良さそうだな。

E.H.シャイン(※3)が来日するからって、さっき聴講申し込みしたけど、1万円したんだよな。

ハクはつくけどさ、何か間違ってるような気がしてきた。


いやいや、これもクランボルツの「計画された偶発性」と見るべきか。

いやいや、オレはオレだった、っていうことだろ。


※3E.H.シャイン… キャリア理論の世界的権威 MIT名誉教授
※4クランボルツ… これまたキャリア理論の大家 スタンフォード大学教授


デザイニング―新しい発想と方法論 デザイニング―新しい発想と方法論
電通デザイニング研究会 (1986/03/20)
電通
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ハイ・コンセプト「新しいこと」を考え出す人の時代 ハイ・コンセプト「新しいこと」を考え出す人の時代
ダニエル・ピンク (2006/05/08)
三笠書房

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ヴァニティ(空虚)、ヴァニティ(空虚)、すべてヴァニティ(空虚)
Fri.11.08.2006 Posted in γ
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かなり何年も前のことなんだが、多分ブルータスだと思う、岡本太郎特集があった。

まだきちんと読んでなくて、いつか読もうと思って積んでおいて、知らないうちに捨てられてしまった。
最近(?)、岡本太郎がまた取り上げられているじゃないか、捨てられてしまった雑誌をどうにかもう一度手に入れたいという思いが強くなった。

 今、岡本太郎の言葉に惹かれる(現時点では気がする)のだ。

ブルータス(これも多分なんだけど)はバックナンバーをネットで見たけれど、それと思われる号を発見することはできなかった。
そしてさっきアマゾンで、とりあえず別の買える本を探して発注したのだった。

そのままネットでつらつらと見てて、そうしたらこんな言葉が出てきた。

*


未来なんてインチキ極まる言葉だ。現時点で充実することが未来であって(同時に過去でもあるが)、未来を想定することによって現時点に少しでも隙間ができるとすれば、全く許せない。……未来に空手形を出すことによって、現在がホンの少しでも希薄になれば、それはもうインチキなんだ。(岡本太郎)


*


そうか...

オレがこういう言葉を素通りできないのは、人のキャリア形成に携わる仕事をしていて、(オレの)仕事には、”未来に「気」を向ける”というフェーズが厳然と存在するからだ。

岡本太郎の、神がかり的な才によって発せられた言葉それ自体が直線的で、例え我々にわかりやすくとも、オレはそれに不様に贅肉を与え、プラグマティックに人間化して話すことをあきらめてはいけない。

*

オレはどう思っているか、ここに書こう。

未来は、、、

 未来は、今、この瞬間に「前を向く」ためにある。


オレ達は、精神世界からはなれリアルに目を開いたとたん、「時の流れと行動事実」の中にいる。

「今」は瞬時に過去化され、体を動かす思考は常に未来予測を伴う。

岡本太郎に聞く。

”現在”だってインチキ極まる言葉だろ?

*


ああ、そうか。


書いていてわかったよ、岡本太郎。

同じことなんだね。


岡本太郎は、”未来なんて考えずに「現在」をひたすら生きよ”とは言ってない。


オレがさっき書いた、”現在だってインチキ極まる言葉だろ?”という言葉に、続きをつけるならこうなる。

”現時点で充実することが未来であって(同時に過去でもあるが)”

つまり岡本太郎が続けた言葉と同じにしかならない。

そして、

”未来を想定することによって現時点に少しでも隙間ができるとすれば、全く許せない。”

に対してオレはこう言う。

”現在しか見ぬ人間が、現在に滞留しそれを嘆くとすれば、全く許せない。”


岡本太郎と気が合わないとは思えない(笑)


*


「将来こうなりたい。」

こういった表現に、未来=結果という思考に対して我々が何の不自然さも感じられないという悲しさがある。

どのように生きるか、こういった学問(敢えて言う)は、まだ本当に黎明期なのだ。
(まだ人間は戦争をしてるんだ、当たり前か)


”今”と”将来”に相関はない。

”現在(今)”と相関があるのは、”瞬時に現在化された未来”であり、言い換えると、”瞬時に過去化された現在(過去)”と、”現在”しか相関は証明できないのだ。

*


未来は、、、

未来は、今という、”この瞬間”に「前を向く」ためにある。


*


P.S.

題名を「ヴァニティ(空虚)、ヴァニティ(空虚)、すべてヴァニティ(空虚)」としたのは、色即是空、「空の空、いっさいは空である」とする般若心境の話に結び付けたかったから。

高度経済成長、目的と手段の考え方、など思いは拡がったが、ブログはそこまでたどり着く前に終わりにしてしまった。

*

フラクタルのときもそうだった。ノートテイキングもそう。
また、いつでも続きを書けばいいさ、と思ってしまう。

ブログって...

がんばりましょう、オレ。
エモイワレヌフアン・リマインド
Sat.05.08.2006 Posted in γ
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特に自分の専門分野で「まだまだじゃん、オレ!」って、ふとした瞬間に思ったとき、エモイワレヌフアンがおとずれることがある。

そんなときには、「自分のできること」を一瞬立ち止まって再確認する必要がある。



オレは、もう会社に依存して生きることをやめたから、

だから、そういう作業はとても大事。


*


それが具体的な不安だったら、今までしたことを具体的に思い出す。

例えば、、、「今まで何回人前で話してきたんだよ、オモイダセ、オレハヤッテキタ。」




そしてオレ宛に、毎日1文しかないリマインド・メールが送られてくる。

”できることを思い出そう”


*


不安はいつもある。

そういう自分を置いてけぼりにしてはいけないんだ。

もう、自分で生きているなら。



何もないと思うから不安になる。


何もないことない。ないわけない。

「必死で思い出せ。ゼンリョクデオモイダセ。」



オレ宛に、リマインドが送られてくる。

”自分を信じよう”


*


そして思い出し始めたときには、もう何か欲しくなっている。

それを手に入れろ。事実を重ねろ、さらに積み上げろ。


いつも事実がオレを救う。


事実=「できること」が増えていくのは、純粋な喜びがある。


イコール、オレと思えるから。


*


その頃には、背筋が伸びている。

胸を張る。しっかりと立てている。

不安定な性質を持つオレの声も、持ちこたえてくれる。


新たなリマインドが送られてきている。

”自己を肯定しよう”




そこからが、やっと自分の価値表現の場になる。



*


価値表現の場では、感性が問われる。

右脳がフル回転する。メタファーやアナロジーがオレの好奇心をドライブしつづける。



そしてオレはきっと何か思いつく。オレハオモイツク!

フローよ、
感性は、事実のないヤツに微笑まない。


勝負をつけるには15分もあれば充分だ。


”自分の貢献を追求しよう”

4日目のリマインドには、こう書かれている。



*


では5日目のリマインドには、なんて書かれているか?

答えは、


”明日に希望を持とう”



クマちゃんフラクタル
Fri.28.07.2006 Posted in γ
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電車の中吊り広告で、日能研の「□いアタマを○くする」シリーズがあるじゃないか。

小学生が解く受験用の問題とかが紹介されてるんだと思うんだけど、今、電車に掲載されている問題のテーマがなんと「フラクタル」だった!


ステキ。


オレ、フラクタル、dai好き。(ちょっと現代数学オタ)


フラクタルって、オレが知ったのはほんの3年くらい前なんだけど、日常に応用が利く、とても素敵なサイエンスだと思った。



*

フラクタルって、なんとIBM研究員のベノワ・マンデルブローっていう人がはじめに唱えたんだよ。(今はハーバード大学の教授だったと思う)


自然界のデザイン、例えば海岸線や雪の結晶、雲、天の川とか、人体の神経構造など、自然界が作り出した多くの複雑なデザインは今までの科学では”記述不可能なもの”だと考えられてきたんだ。

その特徴は”自己相似性”っていう、どこか共通した原理があって、複雑だけど美しさを伴う、秩序と無秩序の中間だと言われているもの。

その複雑だけど美しい成果物がどのように生成されるか、ということのヒントをフラクタルが与えてくれた。


現実には、コンピューターの進歩で、簡単にシミュレーションができるようになってわかった世界の話なんだけどね。

(↑これもIBMer丑田さんの著作による知識)

*


例えば、1本の直線があったとしたら、3等分して、真ん中の部分を山にする。

そうすると、4本の直線からなる山型の図形になるから、それぞれの直線に同じルールを繰り返す。それを何度も繰り返していくとやがて

雪の結晶のような図形になる。これが有名な「コッホ曲線」。

kohho


コッホ曲線のステキなところは、”有限の面積を囲む無限大の長さの曲線”をつくるところ。


有限から無限、ほら、コミヤが好きそうな話になってきたでしょ?

そういう、なんだかウサンクサイ話をサイエンスが証明してくれる。
ステキでしょ。

*


フラクタルは生命の起源説にも大きな影響をもたらしているんだ。


生物は簡単な法則の繰り返しから作られており、

”DNAも進化のプロセスで同じ原理の繰り返しから生成されたのではないか”ということが考えられている。

フラクタルは自然に存在するものの、その生成の過程を解き明かす研究としてその成果を大いに期待されている。


フラクタルいろいろ


*


で、当の日能研の問題っていうのは、

クマちゃん(?)の絵をフラクタルしてって、4回繰り返したらどんな絵になる?

ってもんだいだった。

→コチラ



うーん、ぼやぼやしてられないね。

クマちゃんでフラクタルとは、あなどれぬ。

ヒカル、20年トリップ
Mon.24.07.2006 Posted in γ
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週末に、BookOffに生まれて初めて行ったわけよ。


店の中の存在していた異種の生態系も、
ネタありまくりだったんだけどさ。


とにかく、20年、一気にトリップしたね。
(20年トリップしても充分青春時代なんですが、何か?)


んで、買ったさ。これはそんな古くないけどね。




ヒカルの碁 ヒカルの碁
ほった ゆみ、小畑 健 他
集英社

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「ヒカルの碁」


もちろんオトナは大人買いさ。でもBookOffってすごいよね。

1巻から14巻まで買って、2冊は250円だったけど、残りの12冊は、1冊105円。わーお。

子供のころあったら、感激しちゃうな。


あんまりいっぺんに買うとナンダカラ(意味がわからないが)14巻までにしておいた。

さすが、オトナな気遣いだな、オレ。


でも、なんでヒカルの碁?


なんでって、どっかで面白い、って聞いたような気がするから。
それだけですが、何か?



で、目がしょぼしょぼになるまで読みました。


おぅ。

おもしろかったよ。


どのへんが?



うん、そうだね。お手本のようだね。


つまり、ちょっとしたキッカケを生かして、
あー、上手になりてー、って思って

はまってたらトップクラスで勝負してたっちゅう。



いいねー。



まだ、そういうの狙ってるけどね、オレ。



碁の世界は30までプロ試験受けれるって言うし。

え? 受けれないジャン。



ま、いいや、碁じゃなくていいよ。


とにかく、まだ狙っちゃうよ、オレ。


「はまってたらその道のトップクラスにいた」物語。



漫画っておもしろいよね。

間違いなく日本の最良輸出品だと思うけど。



、、、でもごめん、やっぱ、漫画で小宮っぽいネタって書けないや。



でも、漫画はヨイ。


伝ええないものの中にこそ、その人の世界がある。
Sun.23.07.2006 Posted in γ
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makitakahiroブログへのムリヤリTB
http://blog.livedoor.jp/makitakahiro/archives/50765286.html

オレはねー、みんなそうだと思うわけよ。
自分も疑いようもなくキツイけどね。

それを曝け出した上で他者に理解を求めて、結局「自分(相手)の文脈、世界の中」以外で理解を示してもらえず、心底傷ついてボロ負けしたりすることが、この年になってもあるわけよ。

年をとったら、自分理解、他者理解が深まると思うじゃん。
そう、確かに自分や、社会(共有部分)への理解は深まるかもしれん。

でも自分を譲っていけるような境地というのは、もっともっと色即是空の域までいかなくちゃいけなくて、オレらのこの妄想世界においてはそんなこと言ってたらヤラレちまう現状があるってことだ。

ヤラレないように、結局みみっちい「色」がでちまう。
オーマイガッって感じ。

人間社会だから誰かとの関わりが避けられないとして、いや自分と相手の2人きりの甘美な世界だって、現実に相手が相手の文脈以外にもとづく何かを受け入れることなんてないんじゃないのか?と最近思う。>あえて極に走るけど。

翻って言えば、オレもいろんな人に「コンテクスト」概念についてギャースカ言ったわけだけど、、、美しすぎるかもしれない感はある。

つまり、何が言いたいかというと、オレはそういうことに深く傷ついて長い時間をそこにかけられずにはいられなかった経験があるんだけど、そこから得られたものっていうのは、他者に対しての自省なんて意味がなかったということ。


それだったら、闘え。


そして抽象化した概念のもとにきちんと社会性を見出していけば、うまくいくような気がするんだよね、オレは。

*

自分自身がつまらないのは、相対的な部分への依存感がどれくらいあるかで随分対処が違うと思うし、それはそれこそ人間の円熟なのかもしれないけどオレみたいなオッサンでもまだまだ屁こくくらいしかできません。

でもオレはオトナだからちゃんと「あ、しつれい」って言うのさ。

がんばってね、若い人。
魅惑の島、選択盲、そしてオレの0.3秒
Mon.17.07.2006 Posted in γ
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奄美に来て2日目、車を調達してホットペッパーに行った。


ホットペッパーがあるところは、奄美のサンゴ礁が見渡せる海岸通りでも
空港に続く多くの観光客が通る整備道路沿いでもない。


およそ店があるような道ではない。
すでに海は見えない(実際山しか見えない)。


車も余り通らない民家や畑のならびに、
それこそ古びた民家のたたずまいのまま営業されている。

よく見ないと店とはわからない。
でも小さなコジャれた看板が出ている。


そこを目指して、口伝えの観光客や、地元の人が訪れる。
ガレージを改造したかのようなそこは、サーファーの基地でもある。


もう何度目になるんだろう。
オレは1年ぶりに、でも先週来たかのようにホットペッパーを訪れた。

もちろんそれが許される。
久しぶり!とかじゃなく、ごく普通に、自然に。


オーナーの仲間さんは、波乗りがしたくて奄美に住み着いた人だ。
こういう話のご多分にもれず、シブイ味を出しているイイオトコだ。
オレよか、多分2、3才年上だと思う。


*


普通の会話をする。

「仲間さん、この辺の区長さんもしてるんだってね。」

「あ、そうなんだけど誰から聞いたの(笑)」

「タイシャク君が言ってたよ。いっつも面倒見てもらってるって。」


タイシャク君は、毎年宿泊しているところのニューフェイスだ。

長身で、甘いマスクで、ナイスバディなイイとこどりの彼は28才で、
三重出身で全国を波乗りをしてまわっていて、
今、こうして奄美にたどり着いたと言っていた。

この店(仲間さんの家)のすぐそばに住んでいると言っていた。
今までいろんなところを旅してきて、海外にも行った。
奄美はすごくいいです。と彼は言う。


「スゴイネー、イイネー」と普通にレスをしたら、

「いや、結構あるんですよ、それはそれで、大変なことが」
と笑いながら彼は言った。


「そりゃそうだよね。」


で、今年の秋には三重に戻って仕事をしようと思ってる、と
タイシャク君は言った。
「ちょっと腰を落ち着けてみようかと思ってるんですよ」


*


仲間さんもいろいろ波乗りをしながら全国(世界)を回ってきた人だ。


「ここでこうして波乗りしながら、年に1回くらい海外に
 行ければって思ったけど、ここではそんな(お金がはいる)
 ビジネスはないんだよね(笑)」


「ここに来るために都会で一生懸命働いて、1年に1度一気に
 回収するか、ここにまず来ちゃって、仕事しながら一緒に
 味わうか、どっちかだよね」


*

今までも何度か思ったが、

ここが好きなら、なぜオレはここで生活しないのだろう。

例えばオレは土着、という意味合いが好きではない。

 (注:"土着"は差別用語にあたるときがあるが、
     ここではそういう意味で書いているわけではない。)

ここにいても、オレがほしいもの、本もITも手に入るだろう。

どうせ親とは離れたところに住んでいる。

友達とはいつだって話ができるだろう。


*


なにか、合理的な理由があるはずだから、
一生懸命考えてみる。


*


(面倒くさい)


*

とにかく、意味のない呪縛にとらわれて生きたくない、
という自分にとっての真実。


国が変われば、政治家が変われば、企業家が変われば、
陳腐化してしまうような、そういうものを
自分の考えとして生きたくない。


*


見方を変える。


今に居座りたい、と思うのは、人間のアプリオリ(先天的)な欲求だ。
つまり身の安全の欲求に起因している。


居座るためにいろんなexcuseを用意して、生きているような気がする。


そういうの天才だものな、オレ。


*


さらに見方を変える。


心理学には「選択盲」という言葉がある。
人間の脳は、いったん選択したものを正当化してしまう傾向がある。


逆手に取れば、まず行動をとってしまえば、後から脳がそれを正当化してくれる、ということでもある。


つまり、事実にしてしまえば、事実は否定しようがない。
正、負、以前にある、存在、としての肯定。


うん、それはそのとおり。


*


その辺の考え方は、自分の中でもおなじみ。

ってことは、あとはやっぱり、行動、に対する自分のハードルをどう下げていくか、だな。


*


以前に読んだ(書いた)、
体が動こうとすることに対して、脳が否定権を行使するまでの0.3秒のことが頭をよぎる。


オレの勝負ポイントはどうやらその0.3秒にかかってくるようだ。


*


立ち止まっていても、時間は流れていく。

時間は自ら動かせば、人によってその流れる速さは異なるのだ。


しかし、いずれにせよ70~80年という数値でオレの寿命もやってくる。


*


進むという判断をしたんだろ?、オレ



Go for it 、オレ (再)



そして、オレの脳よ、オレを肯定せよ!


*


来年も仲間さんに会うだろう、普通に。




Amami

脳ができること
Fri.14.07.2006 Posted in γ
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アンドルー・ワイルの「癒す心、治る力」に、「イメージ」に関する記述がある。

ちょっと難文だが意味をとるのは難しくないので読んでみると、、、

「こころの目は治癒系と特別な関係にある。・・・後頭部にあたる脳の大部分は大半が眼球の網膜からくる情報の処理に追われているのがふつうだが、その仕事から解放されて情報処理の対象を内部に向けたとき、からだとこころの交流のための、もっとも重要なチャンネルがひらかれることになる。」とワイルは述べている。

*

その仕事(眼球の網膜からくる情報の処理)から解放されて対象を内部に向けたときに何が起こるか?

ワイルはイメージ療法のセラピストの力を借りてイボの治療をしたクライアントの例や、自己免疫疾患を克服したクライアントの例を紹介する。

*

切り取っても何度も再発してくる左手の大きなイボを取り除きたいと悩んでいたクライアントは、イメージ療法のセラピストの指導によって蒸気ショベルがイボをかき落とすイメージを思い浮かべることによってその問題を解決した。

自己免疫疾患の患者は、(攻撃をしない)白血球を白バイに乗った警官として想像し、その警官がサイドカーに赤血球と血小板を乗せて血液中を走り、(攻撃してくる)白血球から護衛をするというイメージを意識的に繰り返すことによって治療効果を上げる。

*

大脳皮質の多くの部分を、まさに”そのための”情報処理に用いた結果、自律神経系など自分の体の状態を意識的にコントロールしたということになる。

「同じ感情の高まりを治癒のイメージに向け、治癒系を活性化させ、遺伝子の中に隠されている再生能力にアクセスすることができるようになるのだろう。」

*

脳が自分に現実に見せているもの、それは「自分ができること」とかなりシンクロするもので、翻って脳に仮想現実を視させて一人歩きをさせれば、人間はその「できること」の想定の範囲についてもっと自律的に操作することが可能になるかもしれないと思わせる。

*

僕が強く興味があるのは、そこにもメタフォリカルなアプローチが行われていることだ。

つまり、この例の場合も「蒸気ショベル」や「警官のふるまい」といった、自分がイメージを喚起しやすい、しかも自分にとって感情的な反応を示しやすい「例え」が有効活用されている。

*

そしてここにも有限から無限を創出する例をみることができる。

思うに自己肯定感も、仕掛けとしては恐らく同じような行為なのだろう。

夢・Imaging
Thu.13.07.2006 Posted in γ
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夢については、その質が年を取るにつれて高まってるように思う。

*

自分は夢をカラーでみているが、最近はその描画力に感心してしまう。

夢は確かに昼の間に見た、無意識下でも明らかに自分のココロに滞留したものが登場することが多いし、自分の知っている情報世界内でその登場する人・モノも脚本も創られるはずだと思う。

それなのにオレはしょっちゅう夢の中で驚いたり、欺かれたりするサプライズに出会う。

オレは夢の中で「あ、そうか。」と感心したりすることも多い。
(トランプの新しいゲームを教わったことがある!)

*

話はちょっと違うが、体を横にしてから夢と現実のハザカイを「意識的に」さまようことがある。

それは寝るための処方箋とは全く異なる行為で、良い夢の途中で目覚めてしまって、その続きを無理やり視ようとするような行為とも異なる。

自分は完全に覚醒してるんだけど、寝てるように無意識にイメージをみる、ということだ。

プリミティブな白昼夢なのかもしれない。

ただ、自分の不足している無意識の欲求を空想で満たすような行為ではない。

*

具体的に、どのような形でそれが実現するのかというと、多いのは街や建物が微細な部分までクリアーに思い浮かべられるということ。

ひとつの建物がクリアーにビジュアル化できる。

自分は双眼鏡でそれを覗くかのようにみていて、隣に視点を移すと完全な形で隣の建物も視ることができる。

それを隣から隣へ次々にみていく。

*

集中(といっていいのかわかんないけど)が切れると、自分の意識が表面化されてしまいイメージは切れてしまう。

言ってみれば無心のような状態をキープして、いかに長く隣へ、隣へ、建物を視続けることができるか、(それを楽しんでいるわけではないけど)その間は頭がとてもクリアーで、そしてそれゆえ途切れてもまたその状態に入りたいと思うけど、もうその状態には意図的には戻れなかったりするのだ。

*

実はこの経験はビジュアルだけじゃなくて、ピアノのメロディ、という形でも実現されることがある。

その時はすなわち自分が作曲家になったかのように、メロディを頭の中で奏でることができるのだ。

旋律を上げよう、と思えば旋律は持ち上がり、下げよう、と思えば下がる。

そして延々とメロディは流れ続けるのだ。

自由自在に旋律をコントロールし、それを楽しみながら、その集中が切れるまでエンドレスで極めてリアルに美しい曲が流れ続ける。

なんだか自分が浄化されるプロセスのような心地よさだったりする。

*

もちろん、みえた街も、奏でたピアノの旋律も、自分の経験的な記憶・認知としては「存在しない」ものだ。

基本的に自分には絵を描写する才能(もしくは建築の才能)も、作曲ができる音楽の才能も持ち合わせてない。

起きていたら、、、残念ながら、全く再現できない行為なのだ。

*

1996年のノーベル文学賞を受賞したポーランドの詩人、ヴェスワヴァ・シンボルスカが受賞時のインタビューでこう述べた。

「感性が年をとるにつれて衰えるなんていうことは無い。それは逆で感性は年をとるにつれて豊かになっていくものだ。」

これを聞いて、「大人になって僕は感性が鈍った。」と思っていた自分は随分励まされた。

そして年をとるのがちょっと楽になった。
魅惑のファシリテーション(?)
Wed.12.07.2006 Posted in γ
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さて、mixiプロフィールの欄にちょっと書いたように、先週日経ディスコ主催の「ソリューションフォーラム」に参加してきた。

「ソリューションフォーラム」は、毎年この時期、企業の新卒採用活動が大体収束した時期に、採用担当者向けに今年の採用活動(学生の就職活動)の総括を行うイベントだ。

よって、多くの企業の採用担当者が参加する。そうだな、おそらく5、600社くらい。(もっと?かも)


オレはこのイベントには昔から縁が深い。


イベントの構成は、日経ディスコの社員の人の今年の総括報告、識者の講演、企業の採用担当者のパネルディスカッション、などである。


で、オレはよくⅠの採用担当者としてパネルディスカッションのパネラーなどで話をしたのだ。



で、なんで今も縁があるのか。



それは日経ディスコさんが、単にオレに良くしてくれるから?



う~~ん、本当に感謝。


がんばらなくては、オレ。



さて、大学に転職した去年は、さすがにパネルディスカッションのパネラーというわけにはいかず、逆に1時間講演(セミナー)をまるまるもらうことになった。しかも東京と大阪。


すごいね、オレ。



オレなりに考えて、行った講演は「採用活動のコンテクスト ~強い採用活動とは~」というもの。


ここでは「コンテクスト」の意味を詳細には説明しないが、すなわち、学生と企業と本当に共通言語をもててますか~、という投げかけである。それが共有されてないと、どんな美辞麗句もうわっすべり、立てた戦略も意味がござんせん、って話をした。当たり前といえば当たり前なんだけど、それをきちんと説明するために、コンテクストの概念を使わせてもらったのである。

それと、プロジェクトマネージメントの概念を紹介した。なぜなら、採用活動は毎年発生するプロジェクトとして定義できるけど、人事の世界でPMができる人なんていない。そのユルイマネージメントが、採用は人が足らない!と(他社の人が)いつも言い続けてるひとつの理由になってると思っていたからだ。

マスタースケジュールやWBSを駆使するだけで、随分作業のスケジュール、タスクの整理、アサイメントなど楽になるはずなのだ。
これはわかりやすいので結構ウケていたと思う。


後最後に、トップノッチだけでなく、いかにセカンドポジションにいて、でもいい素質を持った学生を積極的に採りにいけるか、その鍵は学生と共に「成長」してしまうことにある、という話をした。
これは、あまりピンとこなかったかもしれない。

たしかに、これはとても高度な戦術で、1、2年しか採用やったことない人とか、仕事でアサインされたから、ちゅうくらいの採用担当者には、「これはなんの話をしてるの?」っちゅう感じだったかもしれない、今思えば先の世界に行き過ぎた。

オレも、そんな話は、どーしても採用で勝ちたいから、小宮さんの力を貸してくれ!って個別に言ってきた企業に、どっぷりカスタマイズ入れながら語れば良かった、と微々反省。


そうだ、うん、使い分けろ、オレ。



で、今年はというと、講演は東大の先生が行っていた。

去年は元 Ⅰ の採用担当者が I 時代にどうしていたか、みたいな引っ張りもありだったけど、今年はもうそういうインパクトも薄れるし、そうするとなぜ大学のカウンセラーがこの手の類のテーマで講演してるの?みたいになるから、オレ的には講演ではないのは納得。


んで、結果的には今年はパネルディスカッションのファシリテーターでお声がかかったというわけなのだ。


それも、いきなり「ファシリテーターでお願いします」って言って断られると困るから、最初は「パネラーでお願いします」ってことにしよう、で後から「すみません、急遽変更があってファシリテーターでお願いできませんか」ってコトにしたんですよ、、、といった配慮(?笑)つきだった。いろいろありがとうごぜえます~


オレは実際には、パネルディスカッションのファシリテートはほとんどしたことがなかったので、確かにちょっと緊張もしていた。

まあ、パネルが盛り上がるかどうかは、やっぱパネラー次第と思うから、不安は大きくなかったけど。


結局、午前、午後、2回のセッションで、共に5分以上時間を延ばしてしまったが、いい経験になったと思う。



あ、、、〆ようとしたら、思い出しちゃった。


午後のセッションで、ある企業の採用担当者が僕の質問に答えていたとき、影でスタッフが(あと15分)というボードを出した。

オレは「するってえと次の質問で○分使って、、、どうにかなるかな~?」と、思いを一瞬(3、4秒くらい)時間管理にめぐらせた後、もう一度話をしている採用担当者の言葉に意識を戻した。


ところが、である。


話がそこで、すっと終わってしまった。


え??終わり??



つまり、その担当者は、3人いるパネラーの3番目に回答したのだが、1番目、2番目の人の回答の長さから、3番目の人も結構長く答えるだろうと勝手に考えていたのである。

それゆえ、ボードのサインが出たときに、一瞬その人から意識を外した。その後余裕を持って意識を戻しても、まだ1~2分は話すだろう。そこからあらたな質問をしよう、と無意識に計算してしまったのである。


でも話は予想以上に短く終わってしまった。


いざ、聞こう、としたら終わってしまった。


やばい、皆回答の後に質問をひとつふたつ入れてるのに、ここだけ「ありがとうございました、じゃ、次ですが、、、」なんてやったら、ひとりだけ話す時間が短くて不公平感が出る。。。


でも、「今よく聞いてなかったら、もう一回言ってください」なんてもちろん言えないし!!!


オレは、まったくもって「何もない、ゼロ!」なのに口を開いた。


「今○○さんがおっしゃられた、、、」


おおおおお、どこに向かうんだ、オレ!
暴走か、勝ち目のないレースだぜ!


その瞬間、、、すごい記憶の辿りかただった。


故意な意識とは違うところから、何か出てきた。


「リマインド、、、リマインドっておっしゃいましたか?そこのところをもう少し詳しくお願いします。。。」



文脈として、このつなぎは自然だったどうか? 

でももちろんもうそんなことは気にしてられない。
とにかく、反省して今から意識を100%回答者に集中しよう。。。




いやあ、場数、とはこういうのを言うね。


思い出そうとすれば、この程度の(でも激ピンチ)頭ん中マッシロネタはいくらでもあるね。


修羅場、という意味では昔試験会場でもっとすごいのもある。
(いつか書いちゃおうかな。)



いやあ、この手の仕事ももっとうまくなりたい。

なぜかこの手のマッシロネタには動じない。



意外とタフだね、オレ。




もっとうまくなりたい。がんばろうぜ、オレ。





行動優位・Think
Tue.11.07.2006 Posted in γ
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ここ2、3日、自由な1時間があると何に費やしたらいいかすごく迷う。
俯瞰的に状況整理するキャパが小さい、ということなのか?
ちょっと焦る。


自分プロジェクト(苦笑)開始後、行動は危うい感じで起こし続けている。

土曜なんてそれにつられて起こった状況に、やめりゃあいいのにクールになれず、自分でまた傷口を広げてしまって発熱。ある条件化では、どうしてこんなに馬鹿を露呈するのか。
ヤバイぜ、オレ。



でも、経験知的に何がオレを助けるのかは知ってるだろ?
とっとと立ち直れ、オレ。


そうだ、ダテにリアルに生きてないね。
いいぞ、その調子だ、オレ。




そうだ、これくらい行動優位な状況は、あの時と似ている。



あんまり誰にも言ったことはないが、オレがⅠ社で5、6年目のとき、SEをしていたときだ。
オレはⅠを辞めてある職業に就こうと思っていた。


それで、会社が終わってからダブルスクールである大学の講座に通い、そこで某国立大学の教授と出会った。今思えばあの激務の会社でよくそんなことしたが。しかも誰にも言わずに。


オレは何度かその大学教授の家を訪問するようになり、将来のことを話しあったりした。



だけど、結局オレはその道には進まず、違う選択をした。



オレは人事に戻る道を選択し、そこで神戸大の金井先生の表現で言えば「ひと皮むける体験」をすることになる。



しかも今、その(人事に戻った)経緯を思い出そうとすると、留学ジャーナルで取材されたときのようなシナリオのみが思い返され、上述のことは記憶の底に沈んでいたりするのだ。





なにが言いたいかというと、


”ある職業”に就こうと考え、行動を起こしたオレが、もしもそのままその職に就く選択をしていたなら、あのときの行動優位な進め方(プロセス)と最終的な意思決定は、オレが”すべて”ひとりで引き出したと言えるだろう。だがオレはそれを決断しなかった。


実際に選択し、成功をもたらした結果(人事へ戻ったこと)は、オレの5割、神の5割でもたらされたものだった。つまり、成り行きはあったものの、向こうからオファーしてもらった、というアンコントローラブルなものがあった。

しかし、留学ジャーナルの取材で述べたように、オレはその選択に絶対の自信を感じた。
つまりそれは、「(偶然訪れたその機会のための)準備はできている」という感覚だ。



「幸運は、準備のできている者に訪れる」というパスツールの言葉は、オレのひとつの信条、いやキャリア形成上のリアルなメルクマールである。



さらに一昨年決断した大学への転職、それは完全に、戦略的に、その時の方法論を再現したものだった。


オレは準備をして待った。


そして訪れたチャンスを想定どおり手に入れた。





話を戻そう。

今の「行動優位」の感覚が、あの時に似ていると思い出されたのである。


イイね、オレ。
過去の体験がオレを導く。



そう、準備を怠らないこと。




Think(考えよ) オレ、





だれか、ⅠのThink文具、ください。

もうなかったりして(笑)


ひとりキックオフ
Thu.06.07.2006 Posted in γ
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7月になる直前となってすぐに、大事なことが複数回あった。


そのことでオレはずいぶん勇気が蘇って、それを受けて7月1日と2日の週末は、ひとりキックオフをしていた!



まず、どうしても心の底からは好きになれないmixiを再生することにしてupdateした。それから、新しくブログをひとつ立ち上げて、mixiと連動させることにした。それから知り合いを探しまくってマイミクリクエストを送りまくった。



われながらかっこ悪い!(笑)



まず"マイミク"という言葉をピンク系オレンジの画面に打ち込んでいる自分が悲しいぞ。このデザインは、どう考えても、R30の女の子ウケを狙ってるんだろ?



ああ、なのにマイミクはいまだに40人くらい(これはGREEでお友達になってもらった人の半分くらい)だし。
みんな、どこにいるんだ。(いないのか?)







なにやってたんだか、オレ。







ただ、、、
自分を責めてももうこれ以上責め切れず、それでも、前に進むしかないときに、どうあらなければならないか。


傷口が開いて、そこから自分の弱さを、自分より年下の子達の前で垂れ流したとしても、それでも、「自分のできること」をしなくてはいけないではないか。




Go for it、オレ!







オレができることをやれ!
それがオレである。






大事なことがもたらされて、それでわくわく感が戻ってきた。

だからしばらくは積極的に仕掛けていくことにした。

今は大事な仲間と、アツク、楽しくやっていくイメージを感じられる。



まさしく Win、Team、Execute だ。笑

IBM、いろんなものを今でもくれるね。
本当にステキな会社だ。



話がヨレた。 ははは。


とにかく、オレが持っているもの、できることをすべて差し出していこう。
とにかく、自分から絡んでいこう。





ようやっと思い出した。







魅惑のノートテイキング
Wed.05.07.2006 Posted in γ
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日経ビジネスアソシエには、ときどき最近おもしろいがページがあったりする。

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最近特に目を惹かれたのは、6月6日号に掲載された「いつも結果を出す人のノート術」という特集。いろんな(達人とされる)ビジネスマンのノートテイキングの工夫が紹介されているのだが、いかにも雑誌取材対応らしい仰々しいものに混じって、電通ケトル社長の嶋浩一郎さんのノート術が紹介されていた。これがかっこいい。

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「離婚届のハンコは苗字は同じでも(夫婦で)違うハンコじゃないといけない」「高速道路の通行券のナンバーは下2桁が車のナンバー」など、本を読んでいて知らないことや、いい文章を見つけると付箋(ポストイットだね)をとにかくつけるらしい。他に、人と話して面白いネタがあったり、隣のテーブルで女子高生が面白い話をしていたらまず"2軍のノート"なるものにつけていくのだそうだ。そしてこれを1ヶ月くらい寝かせてから、"1軍のノート"に移行するのだそうだ。つまり、本に付箋を貼ってもすぐには書かない。1ヵ月後に「なんでここに付箋を貼ったんだっけ」と思い出すことで記憶が定着する。書く前には周辺情報をGoogleで調べて追加情報を加味して書く、のだそうだ。

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ちなみにネタには番号が振られているが、ただの羅列で整理はされていない。これがかえって自由なネタのつながりを生み出すという。たとえば「松葉ガニも越前ガニもタラバガニのことで、産地が違うだけ」というネタと、「サルトルは甲殻類が嫌いだった」というネタをつなげることができる。サルトル=フランスや実存主義といったつながりももちろんできる。ひとつの情報に小ネタがついたほうがアイデアは出やすい、ということらしい。

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これってなにげに僕が考えているキャリア形成スキームと一緒。笑


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つまり、自分の過去を棚卸しして事実をとにかくたくさん把握する。
その事実を自由に組み合わせて自分のできることを最大化し、やりたいことを叶えていく。
点(ネタ)と点(ネタ)をつなげて線にしていく、という感覚。

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アイデア=ひらめき、ということについても、僕は「0」から「1」を生む、ということをあまり信じていない。ひらめきは自分の持っている(無意識下の)事実の組み合わせから生まれる、と僕は思う。その自由自在な組み合わせを容認し信じることこそ重要なことだと思う。

だから当然、「いくつもアナロジーの事例があったほうが創造力をかきた立てる。(嶋さん)」
納得。

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もうひとつ、イラストをつけることでわかりやすさとインパクトをつける、という都市設計家の山田雅夫さんが紹介されていた。ノートにスケッチをしていくのだが、なんかおもしろそう。
大概の物体は直方体と円形を含む物体、例えば身近にある携帯やipodで練習するのがいいらしい。
線は自分に近いところから描く、右利きの人は右上がり(右上に奥行きがでるよう)に置いて練習するのがいいらしい。なぜかすごくやってみたくなった。

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そもそも、"ノート"にすごく興味が湧いていた。
なぜなら、ふとしたことで使ったノートがすごくゴキゲンだったから。
大江健三郎 「新しい文学のために」
Sun.02.07.2006 Posted in γ
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午前中、テレビを見ていたら大江健三郎が出ていた。
20年くらい前のインタビューだけど。

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大江健三郎をよく読んだ時期(SEだった頃)があって、本もかなり買い漁って持っている。

今はもう何年も読んでいない。

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最初に読んだのは、「新しい文学のために」という本。
この本で、思想家や作家がベースとしている多くのことを知れた気がした。僕がいつも気になってしまう「方法論」が小説という世界につかわれたときどうなるかがそこにはあって、それに心が響いたのだと思う。

新しい文学のために 新しい文学のために
大江 健三郎 (1988/01)
岩波書店

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一方で大江健三郎はいつもこんな言い方をする。
 「人間は壊れるものである。」
 「だから壊れないようにうやっていかなきゃいけない。」
大江の本は大概私小説か講演の逐語であって、それ故話の中に障害者がよく登場する。
("障害"自体がストーリーそのもののテーマになることは少ない。登場人物の中に障害を持っている人がでてくるのである。)

大江の話には大概、心が苦しくなる展開があって、僕はいつもそういう"事実にどう対峙するか"というテーマを知りたいと思っていたように思う。

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大江の本には、ミラクルも、超絶的な努力も、感動秘話も登場しない。ただし、日常をスケッチして叙情的に語り終わらせてしまうのではなく、必ず話の「結び」が用意されている。
そこが大江の本を続けて読んだ理由のように思う。

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そこにあるのは、今となっては死語に近いが、どのように心に"癒し"がもたらされたのか、何がきっかけとなって、受け入れることができたのか、ということに対する答えである。

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大江は「人間は壊れるもの」という定義と一緒に、
「壊れたらなおす」ということをいう。
そしてそのために、目の前にあるものを見つめる。

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二百年の子供 二百年の子供
大江 健三郎 (2003/11/26)
中央公論新社

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大江健三郎の本が、今読んでも僕の心に響くのか、それはよくわからない。

それにもう、そういう読み方で小説を読むことはしないようにも思う。


本はいつも、そのとき必要なものが、僕の手元に現れるんだろうから。




脳が体を支配する?
Sat.01.07.2006 Posted in γ
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東大大学院の池谷裕二先生の「プレジデント」への寄稿、響いたねー。

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われわれの体は脳によって支配されていると思われがちだが、実は体が脳を支配している、というもの。そこをよく理解して、意識と行動をコントロールしていこう、というもの。

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リベットと言う学者が行った有名な実験によると、好きなときにボタンを押してください。と言われて好きなときにボタンを押すのは一見自由行動のように見えるが、実は脳波を調べると、まず手の運動プログラムが動き始め、それから最長で1秒ほどたって、ようやく「押したい」という意志が生まれていた!という。

ちなみにその0.3秒後に、脳からの指令が働き、そこから0.2秒後に実際の指が動く仕組みになっている。この前者の0.3秒、つまり意志と指令の間の時間が行動の猶予時間であってここで「ボタンを押さない」という意志を否定する選択ができるようになっている。

この0.3秒で、人間はいろんな衝動を抑えるのである。

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この後もおもしろい話が続くんだよ。

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こういうの偶然手にすると「意識と行動の専門家」になりたいって気持ちがムクムク湧いてくる。

僕が重視するのは、とにかくサイエンス。言葉にも情動にも宇宙にもこころにも、みんなサイエンスが欠けているから。

こういうの考えてるの楽しい。






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