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Electronic Harmonique
Sun.08.03.2009 Posted in Quad
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今日ようやく20km走り切れた。

先週末、根拠のない自信を持って20km走にチャレンジ、土曜、日曜いずれも15km、14㎞というところで足が止まって失敗に終わり完全に心が折れてたけど、やっぱ今週もう一回チャレンジしたくて。
この欲求はどこから来てるんだろ。

去年の9月の終わりに500メートル満足に走れなくて、自分への絶望から始めたラン。
5kmのウォーキングから始めて、週末祝日はほとんど休まずに続けてきた。
エリートランナーからは程遠いけど、継続はきっと<自分を信頼するために>必要だったのだとも思う。

今日は3月7日で、RDI設立1周年。
今日走れたら記憶にも残るし、とも思ってた。

過去の俺的金星人表現からすると地味に過ぎる足跡ではあるけれど、自己満足はばっちり。まぁ今はこんな感じでしょ?

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幸せは不幸の反対ではなく、よいものは悪いものの反対ではない
Sun.15.02.2009 Posted in Quad
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瀬戸内寂聴という人はよく知らないんだけれども、昨日テレビで「愛」について話しているのを見ていたら、彼女は「愛は想像力」だという話をした。
よく聞いてみると、最近どこかで同じ話を聞いたぞ、と思ったのだが、「愛がうんちゃら」というのは(もちろん)そんなに僕にとって食いつくテーマじゃないわけで。

あ、この話はバッキンガムだと。
しかもさっき読んだ。

花粉症の薬をもらいに行ったお医者のロビーで読んだ。待ち時間対策で持っていったマーカス・バッキンガムの「最高のリーダー、マネジャーがいつも考えているたったひとつのこと」の第一章を読んで、僕はピーター・センゲくらいバッキンガムへの気持ちがふくらんだのだ。
その第一章は、結婚生活について知らなければならない、たったひとつのことについての研究が書かれていて、ミンツバーグのマネジャー論を読んでなんにも響かなかった僕は、そのリベンジを果たしみたいな気持になって揚々と引き上げてきたのだ。

瀬戸内寂聴の話の内容は、不倫も純愛なら許されるとか都合のいいところしか頭に残ってないのだけれど、バッキンガムのほうは(まだ本編を読み切ってないけど)どんどん僕の頭の中で(仕事で使えるフレームとして)発展しているのだ。


ここ100年くらい、マネジメントの研究では失敗から学ぶ、欠点を直して理想に近づく、といういわゆるGAP(ギャップ)アプローチとかデフィシット(欠点)アプローチと呼ばれる手法が盛んだった。
結婚や恋愛についても、うまくいかなかった多くの事例から、カウンセラーはこんなアドバイスを続けてきた。
例えば、こんなアドバイスだ。
 あなたのパートナーの強みや弱みや価値観をきちんと理解しよう
 だから相手の話をよく聞きなさい
 相手が自分と違うことを理解しなさい
 ウソをつかずにオープンでいなさい
 お互いがお互いを理解すること、これが誤解を防ぐ唯一無二のことなのだから
これらは確かにうまくいかなかった原因として、的を得ていることなのだ。

しかしここ20年の間に(日本ではここ1,2年だ)、研究の焦点は失敗から成功に移った。
僕らの仕事のコンテンツ作りのひとつの柱にもなっている、ポジティブ心理学の流れだ。

バッキンガムはニューヨーク州立大学のサンドラ・マリーの研究を紹介している。
平均同居年数が約11年の、長続きしていてお互いに満足感の高いカップルを対象にしたその研究では、相手を理解していることが強い関係を築く、という今までの考え方がどうやら違うという明確な結果を示しているという。

そのかわり、はっきりとした一つのパターンがあるという。
満足度の高い夫婦では、「やさしさ」「隠し事がない」「寛容さ」「辛抱強さ」「温厚さ」などすべての調査項目において、夫(妻)の妻(夫)に対する評価が、自分の自分に対する評価よりも高いというのだ。

言ってみれば、お互いの行動についてもっとも寛大な解釈を当てはめ、それを信じること。
この、「肯定的幻想」が強い関係につながっている、という。
幻想が確信を与え、確信は安心感につながり、安心感は親密さをはぐくむ。親密さは愛情をより深めているのだという。

ま、ここでは多分、自己効力感の強い人とか、肯定的幻想が持てる人のほうが結局うまくいく(恋愛においても仕事においても)、というような短絡的な落とし込みにもっていくのではなくて、大事なことは相手や自分の欠点をとらまえて、それをどうにか修正しよう、と試みても、それが必ずしも自分の理想(幸福感)へ自分を導く手段にはなりえないということだろう。

→ 顧客満足度の低い自動車修理事業の業界において、BP Pro Care社は、顧客満足度79%と非常に高いレベルを保持していた。しかし経営陣はこの現状に満足せず、更に高い顧客満足度を目指し、「不満足顧客」を対象にした調査を実施した。調査結果から、欠点や問題が浮き彫りになったが、責任の擦り付け合いが社員の間で始まり、社員のモラルとモチベーションが低下を引き起こしてしまった。そこで、AIを導入し、今度は満足している顧客と顧客満足度が高い店舗を対象に、「なぜ満足度が高いのか」というヒアリングを行った。調べてみると単純なことで、例えば、担当整備士と直接話すことができること、進捗を報告すること、電話を1回目の呼び出しで取ること、車を洗うことなど、些細なことが挙がった。8ヵ月後、BP ProCare社の顧客満足度は、この取り組みの前を上回る95%へと上昇した。(ヒューマンバリュー社のAIの説明の中から、デフィシットアプローチの失敗からポジティブアプローチに切り替えて成功したという事例)


こうなると、、、
守破離の概念とかと、どう同居させよう。
悩むねー
(もう仕事の話)

つまりさ、君のところに新入社員が来たとするじゃないか。
どの辺までは、社会人の基礎として、型にはめること(GAPアプローチ)をして、どこら辺から個性を生かすこと(ポジティブアプローチ)を行うか。
いや、こういう表現じゃないのかな。

どう同時に表現するか。
個と全体の話のようにね。

いつもどおりの僕の考えだとさ、注目は確かにここ数年GAPアプローチから、ポジティブアプローチに移ったけどさ、この両方を取り入れた概念、つまりはここでも両者をアウフヘーベンした概念っていうのが次には出てきて、やっぱりどっちも片方だけっていうのは駄目だよね、っていうのが将来の姿だと思うわけですよ。


不足を充足しつつ、個性を活かすわけね。

個性を活かす=できることを活かす、だからね。
事実を増やしておくことがひとつのキーだから。

するってえと、不足を充足する(事実を増やす)過程では、例えば資格を取るとか、公式を覚えるとか、嫌な人をやり過ごすとか、前提になる成果を上げるとか、職位を上げるとか、いくらでもでてくるよね。
その瞬間はやっぱりモチベーションは損なわれているであろうことは想像に容易くて。

我々はその循環をうまく逃げ回りながら前に進んで行くってことか。

周期の話も縁の話もあるしなあ。
フクザツ極まりない。

あ、やばい、これこそ落としどころがない。笑
月が見ている
Fri.02.01.2009 Posted in Quad
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現代の若者の4人に3人が、今の世の中は努力しても報われない、と感じているという。

経済に詳しいって顔して出てきた最近人気のKっていうオバさんが、「現代の若者は内向き、保守的だって言われるけど、彼らは別に今の時代に生まれたくて生まれたんじゃない、って思っているはず」とかなんとかウケるようなことを言ったら、会場にいた若者たちが拍手をしていた。

。。。

オレのブログなんて多くの人は読んでなくて炎上しないから、あえて問いたいのですが、

「君らは、努力してんのか?」

「僕ははっきりいって努力していると思います。でも今の世の中って、バブル世代の人たちに比べたら全然不公平な世の中になってるし、はっきりいって負の遺産をたくさん引き継がされてると思います。」

とか、そんなこと言うんだろうな。

そういう人には、こう聞きたい。

「そう。で、君は努力してんのか?」


「努力してます!」


だったら、なあ、、、
オレなんかの言うこときいても別に何も腑に落ちないかもしれないけど、、、

オレは、努力しているけど報われていない人なんて、知らないぞ。
アラフォーになったけど、今までそんな人に会ったことがない。
これからも会わないと思う。


今まで、ずーっと見せつけられてきたよ、オレは。


努力してる人には、かなわない。


やったらやっただけ、前に進める。
やったらやっただけの事実が積み上がる。

それ以外の真実がどこにあるんだ。

そうじゃない人っているのか?それこそ神様じゃないのか?
お前ら、意味が分かんねーよ。

「あなたこそ、意味がわかりませんよ、そういうことを言ってるんじゃなくて、、、つまり自分の成長って言う意味では努力したら意味があるのはわかってるんですけど、同じ努力しても返ってくるものが違うっていいたいんですよ。」

とか、言われるんだ、きっと。


でもね、やればやるだけはっきり知るんだけど、
返ってくるものって、やった分だけなんじゃないの?

そもそもそれ以上のものが返ってくることってあるのか?
エクストラはエクストラだって、これはラッキーだって、当の本人はわかるでしょ。

T先生がコメントしたように、「価値を作り出して前進することを恐れずやりぬく」ことが大事なんじゃないか。
結局、今の時代じゃなくたって、そうじゃないか。


**

まあ、もうちょっとストイックなことを言えば、努力してるベクトルが、嫌いな人のための仕事に向けさせられたり、仕事のための仕事に向けさせられたり、誰かのフォローなだけだったり、自分の成果にならないことがわかってたりしたら、それは確かにメゲルよね。

世間に対して、っていう意味でさっきの話も同じようなものか。

オレも今までそういう仕事にさんざん幻滅してきたし、それかいら解放されたいから自分で会社をつくることにしたようなものだし。

オレが20代のときに、夜の12時にフロアーの電気を消して、海浜幕張から終電に乗るために全力ダッシュを繰り返していたあの時、
「ちくしょー、オレのこの姿を誰が見てくれてるんだ。上司はとっくに帰っちゃってるし、となりの部署だって誰もいなかったし、オレが毎日頑張ってる姿を誰も見てなかったら、評価されるわけなんてないじゃないか!」なんていつも思ってたあの時、

「・・・オレがこの道を走っている姿は、月だけは見ている」

って思ったことが、今でも良かったと思ってる。

オレが去年の秋、週末ランを始めたことはミクシーの日記にも書いたけど、オレは暗くなってから走るのだけど、月が出ているとすごい嬉しくて、月に見られることに一種の「応援の気」を受けとっている。
ああ、月が見てくれている、がんばろうって。

あほですか?
でもきっと、オレは普通の人だから、同じようにみんなも感じると思うよ。


そういや7、8年前にジョージと話してた時、
「マラソンが自分を救った。マラソンしてなかったら、今の自分はなかった(人間としてもっとダメなやつだった)。」
と言ってた。

当時、そういうことを聞いて、まあ顔つきに見合って爽やかな(もしくは果てしなく暗ったい!)若者のセリフだとあっさりスルーしたのだけれど、今自分が週末ランを続けてみて、そこで少しずつ自分が距離を延ばせるようになったこととかから(多くの人がおそらく同じように)得ているものというのは、自分についてのacceptance(承認)であって、それが真実であることを自分自身が確信するために、月はなくてはならないwitness(証人)なのだ。月に向かって嘘をつきたくはないから、それはちょうどいいんだよ。


**

性格上ずーっと強気でかっこつけたことを綴っていくことは難しく、笑
「ならオレは努力してるのか」
という自問自答に嵌っていき始める。


そうやって自らを振り返ると、頑張っているようだし、頑張っていなようでもある。


はっきりと言えるのは、、、

努力に相対したポジションにいる、っていうことか。


間違いなく、月が見ている。

オレはそう思う。

創造が未来と過去の綜合だとして 
Tue.30.12.2008 Posted in Quad
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仕事上、創造性についての論議になることがあるのだけれど、他の基礎力開発論議とはどうしても一線を画さなくてはいけないような気持になる。

創造性について考えるところがないではない。
が、僕は仕事上の話し合いの場合、自分の主観をなるべく言わないようにしている。
それは小宮講で書けばいいやと。


例えば、面白いアイディアを「発想」しなくてはいけない仕事があったとする。
(もっとも、大概の事は面白く発送したほうがよいのだけれど。
 まあ、楽しくやる、っていうのがまだまだ許されないのは原始時代だからしょうがないとして。)

面白いことっていうのは、例えば脳が喜ぶ要素が含まれているってことだと思うわけだが。
例えば、新しいことだったり、拡がりのあることだったり、適度なリスクだったり。

それはどのようにして為されるかと。
方法論では正しさしは導けるけれど、面白さ、というのを最後にどうやって実現するのかと・・・
と・・・書いていて、時間軸のずれに気づいた。

具体化されたものの存在>理解(解釈)>(面白さを)感じる

面白さを創るってことは、これを逆算することなんだよね。

(面白さを)感じている>理解(解釈)>具体化して存在させる
として、時間軸を遡ることが求められるわけだ。


**

バッハには、その楽譜を<読んだ>ときに初めて理解できるすごさがある。

っていうのは茂木の本の記述で、(twitterでつぶやいといたのですが)バッハの時代の作曲というのはひどくルールに縛られるものであったのだけれども、作曲のルールをいかに超秀才的にこなせたとしても、聴いて心に響く曲になるかというのはもちろん別の話で、学校でも教えることなどできない、という話だったのだが。

つまり、

心に響いている状態>理解(解釈)>composition:具体的作曲行為

というオーダーの逆循環がもたらされているのではないかと思うのである。

波動、っていうか周波数を、<先に>心が響いている状態や、面白いと感じている状態にもっていくというのが当たり前だけどミソだと思うんだよね。
その次に行うことが非常に重要なわけなんだけど、要は、一番大事なことは、

その状態をキープしたまま、必要な作業を行うことではないのかと思う。
つまり、面白いと感じている状態で、心に響いた状態で、仕事をすると、仕事はそのように具現化せざるをえなくなるのではないか。
簡単に言ってますが。笑

そしてやっぱりその時に活躍するのは、過去の残像なんだろう、と思う。
面白いと感じている状態で、心に響いた状態で、過去の残像を追うのだと思う。

さまざまな過去の残像のかけらが、再編集化されて、新たなモノやコトになるのだと思う。
創造とは、先に未来を確約した状態で、過去に遡ることからもたらされるのだと思う。

そういう言い方をしたら、なんだか創造も過去の焼き直しで、なんだか光を失ってしまったかな。
いやいや、例えば作曲にしても、限られた音符の構成から、こんなにも無限な可能性をもたらしているわけで。

いやいや、リソースが有限なのだから、人間には充分すぎる、無限に感じられるその組み合わせも、有限と言えば有限なのか。
神の掌の上の無限だったとして、それでもいいよな。


**

ちょっと思い出したんだが、感性の豊かな人が好き、なんて高校生の時に言っていた。マセガキだな、まったく。

この場合の感性豊か、っていうのは、勘がいい、ってことではない。似てはいるが。
感情表現が豊かって意味だ。だった。

感情、情を感じる、というのは、言ってみれば相手の波動に自分の波動を合わせるような行為だ。
自分の情を手放して、相手の情を感じる、という行為は、かなりオープンスタンスでないと実現できない。
ある意味、奉仕的だし、リスクの高い行為だ。
そして優しい行為だ。

本を読んで、感情移入するのも、音楽を聴いて感情移入するのそうだ。
それには自分(の情)を手放して、他の情に合わせる行為が伴っている。
野生の王国で言ったら、リスク感知ができていない無防備な状態だな。
(もう一般的な「感性」という表現とは外れてきてしまった。。。)

僕が高校生の頃には、感性本が時代を席捲していた。
村上春樹とか村上龍とか吉本ばななとか鷺沢萌とか僕も読んだ。

なんで今は感性本を読まないかというと、それらは今は自分を救わないと思っているからだ。
自分を手放した状態でいると、弱肉強食の世界で誰かの餌になっちまう、という気がして防御しているのだ。

村上龍も今ではカンブリア~だものね。
我々も次なるステージに足を踏み入れているってことか。

でも、この先感性はまた必要になるだろう。何かに浸るって意味じゃなくて。
具体的に必要になる、そういう気がする。

つまり経済も物理も感性も、本当は分けちゃいけないんじゃないかと、そういう気がしてる。
そこから、いろいろつまらなくなってる、でしょ?

もうすぐ、そういう時代がやってくる。
っていっても僕が死ぬまでには、、、無理かなー。

しょうがないからマイノリティでもいいや。

自由たらしめるもの
Sun.21.12.2008 Posted in Quad
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現実なんて、いつだって窮屈そのものだ。

ランニングを始めてみて知ったのは自分の委縮した身体能力そのものだ。
昔知ってた体を動かす感覚が、現実にはいまさら再現されないことが確認できて、
でも少しづつ戻していこうと思って、そして思いのほかそのチャレンジは続いてて、
そしてすごくわかったことがある。

それは、戻す、なんて考えは間違ってる、ということ。

これは、ここをスタートとして始めなくてなならない新しい<進化>だ。
といってもかっこいい話じゃない。今はとても進化なんて言える状況じゃない。
大体もう部品がやばい。一回走ってこの消耗?ウソだろ?って思う。
ツケ?
そう、ツケなんだよ、ツケ。

自分の現実を見せつけられるというのは、まったく窮屈極まりないことだ。

だったら、そう、なにしたいんだっけ?

思えば、17歳の時にベスパを買って、その時にオレの世界は圧倒的に拡がったのだ。
グリップを握りさえすれば自分の(人間の)能力をはるかに超えることができたのだから。
それは小さな子供のころに憧れた「想像」の感覚そのもので。
だからそこからまた窮屈な現実に戻ろうなんて、これっぽっちだって考えなかったのも無理ないでしょ?

現実なんて、いつだって窮屈そのものだ。


ただ、こういうことも経験上知ってる。

事実だけが自由をもたらす。
自由になるためには、事実が必要なんだ。

仕事だって身体性についてだって同じだ。
できることをつくってから、一番楽しいことを選んでやるさ。

くそったれめ

メタファーとしての死
Thu.30.10.2008 Posted in Quad
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高間さんの本の出だしを受けて思ったこと。

***

ここ十数年の間に、自己組織化というテーマが多くの関心を集めるようになった。
形なき物質に出来合いのパターン(情報)を押し付けることで秩序を形成し、ネガティブ・フィードバックによって安定的に制御していくという「他律」の構図に代わって、ゆらぎをはらんだ物質の広がりの中からポジティブ・フィードバックを通じて自ずと秩序が形成され、ダイナミックに変容していくという「自律」の構図が前面に浮かび上がってきたのである。
(「知恵の樹」ウンベルト・マトゥラーナ/フランシスコ・バレーラ 文は浅田彰)

***

やべー、10年も前の記述だけど、すごいわかりやすい。。。



そうか、秩序は自ずと…でいいのか。





そして思ったんだけど…


従来の機械的な分析的(アナリシス)アプローチから、生物的な統合的(シンセシス)アプローチに移行するなら、それはやっぱ”死”という概念をも取り入れるということだよね?



どうやら我々はもう惑星メーテルに着いたんだろか?

温暖化で気づいて、どうにかして自分の手で経済を殺し、生あるものとして立派に死を選択していけるのかしら。



っていうか、できんのかいな?




人にも組織にも企業にも、生を受けてからの年齢というでも言うべき成熟度があるわけで、子供にそんなこと言ってもわからんと思うし。


だいたい、オレだってそんなに大人じゃないぜ。


でもいずれにせよ、最後はみんな死ぬんだしなあ。





自分が死んだ後に、この会社がなくなっても、オレは気にしないけど。



うーん。意外と「死のメタファー」は重要な気がする。


あっちの世界のことがわかんないと、この先行けない気もするけど。笑

デザインすること、意味付けすること、気を放つこと
Tue.23.09.2008 Posted in Quad
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デザインする、ということはデザインした対象に、何らかの意味を与えることだね。
その基本(ファウンデーション)になっているのがシンメトリー(対象)や、フラクタル(相似)、コヒーレンス(一貫性)といった概念だ。
もちろんデザインされていないマテリアル的な万物何に対してでも、ポジティブアプローチによれば意味を見出すことができる。
(すべては地球がデザインしたもの、ということもできるのだが)
ただ、いずれの場合も、意味を見出すというのは必ず他の一方向からの解釈が必要だ。
マテリアルとしての存在はもともとあったものとしたって、存在の意味はとにかく他者から認知されて初めて成立するということだ。
そして他者から認知されて始めて存在するというのはアフォーダンスを連想させる。
(僕は実際には意味を放つ側と解釈する側にはもっとイーブンな関係性があるんじゃないかと思う。)



「意味」は、「デザインを放つ」ということと「デザインを理解する」ということの双方向の干渉の上にもたらされる。
「存在」という観点でいえば、たとえば他人から無視されることで自分のアイデンティティが損なわれ、あたかも死んでるように感じるかもしれないけど、
<事実自分はそこに存在していて>そのことから目を背ける必要はない。
デザインされたものは、デザインされた瞬間に意味を放つ。命を吹き込まれている。
椅子は椅子としての意味を放つわけだ。
君は他人がどうこう思うまでもなく、もともと存在の意味をきちんと持っているということだ。

デザインされたものを解釈する側がその残り半分の権利を執行するわけだが、そこには解釈の深度の差が発生している。
うざいこと極まりないが。
評価は他人がするもの、というのは企業人の合言葉だ。
芸術というのは、理解する人が現れなければ未完に終わる。



僕らが唯一そのパラダイムから脱出するには、仮想の他者をたてることだ。いつもの言葉で言うと離見の見か。
昆虫が擬態を操るのは、他者の目を理解しているから。
そこには進化の道しるべがある。
自分を解釈することで、自分に意味がもたらされる、それで進化などというのは、いささか近視眼的でもあるように思える。
しかし、自分が生きている間に、できる限りの進化を遂げたい、そういう気持ちが自分にあることを隠せないなら、自己と対峙し、自己から離れることが必要なのだと思う。

自己から離れる、という感覚は、つい最近、ダイアローグを復習していて「保留する」という概念でまたつながった。
保留し続けることで、なぜアウフヘーベンがもたらされるのか、まだそこがわかっていない。
メタファーや、アナロジーではない、そのような次元ではない、仏教的方法論がそこにはあるのだろうか。
「そしてまた手放す」にあったように、日本人はそのような感覚はカルチャーとして端的な理解をしている。
あめりかの人たちがギャースカ言ったところで、びびることはないのかもしれない。



ダイアローグに影響をどこまで受けるのか、自分でも見極めが難しい。
でも、こんなことも思った。
たとえば、和をもって、と言うのと、民主主義、というのは違うのだな、とか。
最近特に、<多数決>というのはどうなのかと思った。
僕はすべては話し合いで、戦争すら解決できる、と思っているかと言うとそこまでじゃないのだが、それでも正解を追及したいタイプではあることには間違いない。

多数決って言うのは、正しさをもたらすのか?
これは致命的に欠陥のある意思決定の仕組みなのではないか、とすら。



最初に戻るのだが、ふとしたときに、<気>とはすなわち<意味>ではないか、とふと思ったのだ。
今日の言葉の中から拾うならば、<気を放つ>とは<意味を放つ>ことと同義なのではないかと、ふと思ったのだ。
<気を放つ>にはあきらかに<デザインすること>が伴っているように思える。
そして<デザインすること>は<バランスをとること>にも他ならない。

そうやって考えると、<気を放つ>ことには必ず受け手が必要であるということにもなる。
<気を受ける>というのは<気を放つ>以上にデリケートな行為だと思っている。
しかも、その気を受ける深度は、人によってかなり個性差があるということなのだろう。

そして<気を受ける>ことについてはもちろん自分が仮想受け手になれることも含むのだ。
気を出すこと、仮想受け手として機能すること。
自分で自分のコップを満たせるようになる、という、はるか昔に受けた自己啓発セミナーでの主催者のセリフを思い出す。
Three months passed
Sun.29.06.2008 Posted in Quad
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採用と育成研究社ができて3か月が過ぎた。

立ち上げ時とでさえ実に様々なことが変わっている。
何が楽しくて、何はモチベートされないか、それがよりはっきりしてきてると思う。

それができるからビジネスにする、というところから脱却して、それができるしやりたい、というステージに行くのは十分に気を付けないと会社としての存続を脅かす。
けれども、楽しいことを追いかけたい。

それには正しさが必要で、そのためにこれからも努力しなくてはいけないと思う。
具体的に言うと、きちんと知識をインプットして、きちんと繋がりを保って、きちんと意味づけをして、ということかな。


「正しいことをしても勝てるわけじゃない」への挑戦は続く。


7月からオフィスがちょっときれいになる。
会社もオレも周りからつくられてくなあ、と思う。



7月というのは大事な月だ。
オレの場合、いろんなことがこの時期に始まることが多い。

始まる前に金曜日が全部埋まっちゃったのは<涙>だけどね。
仕事だからしょうがない・・・かな。

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