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人生は、ドラマだ。
Tue.06.11.2012 Posted in Quint
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人生は、ドラマだ。(キリ)

普通に生きてるだけで、なぜかようにドラマティックなことが起こるのか。

毎日平和に生きていれば、それだけで人生は面白い。
ほんとに、そう思う。嘘じゃない。




この前、茂木先生が連続ツイートで、自分が主人公の舞台にいると思って人生をイキロ的なことを言っていた。
そういうテイのメッセージングは昔からあるが、自分で自分を演出しろとか、当事者意識を持てとか、客観視しろとか、舞台から降りるなとか、まあそんな意味合いを含む。のだろう。多分。

それを見ていて、実は僕はちょっと批判的に思っていた。

若い人に適当に言うんならいいが、僕は年を取るにつれて、ああそうじゃないな、と思っているからだ。
むしろ取りようによっては、自分を自分ドラマの主人公だと思うなんて、リスクが高いと思っている。

なぜかと言うと、そんなこと意識しなくても間違いなく自分は自分の人生において主人公以外になんてなれないからだ。
そもそも主人公なのに、主人公だと思ってイキロ的なイキミは、真面目なやつほどバツをくらう。

もっと簡潔に言うならば、こうだ。

人生はドラマじゃない。

人生はドラマじゃない。(キリ)


2回言った。




昔、月が見ている、と書いたことがある。

仕事で忙殺されていたのだが、月が見てくれていてなんか救われた、という話だ。

でも、月が見ているから、無理がいいことに変わる訳じゃない。
月は、ただそこにあって、見ているのだ。

もっと言えば、その月は、神というソレではない。
つまり、月が見ているから、悪いことはしないようにしよう、とか、そういう対象においた訳でもない。

月は、ただそこにあって、見ているのだ。

僕にとっての客観性とは、そういうものだ。




ドラマでは、主人公はチャレンジした結果、窮地に陥る。
でも最後に点と点がつながってすべてに折り合いがつき、エンディングが訪れる。

ドラマは必ずそうだ。なぜならそれが面白いからだ。

人生のドラマも、同じだ。
面白い人生は、みな、そのようなドラマだ。

チャレンジして、窮地に陥り、必死でもがいて、やがて点と点がつながり、達成感や安寧がもたらされる。
我々は、その主人公だ。間違いなく。


じゃあ何が違うのだ。

それは、ドラマは視聴者の為にある、ということだ。




客観性というのは、僕にとってとても大切なものだ。
第3の視点であり、意味づけの主であり、自分の唯一無二のコンテクストだ。

でも、リアルな人生に、視聴者はいない。
だから、視聴者のためのドラマ的予定調和はない。

予定調和がないということはどういうことか。
ハッピーエンディングが訪れないとか、そういうことじゃあなくてね。

コンテクストという言葉を使うならね、人と人との共感は、コンテクストの共有に他ならない。
でも、そもそもそういう視聴者がいると期待して、コンテクストの共有に思いを馳せ感情移入すると、時に自分につらい仕打ちをもたらす、ということだ。

観客席にいるのは亡霊だとか、死にたくなるだろ。



わかりづらく言ってスミマセン。
わかりやすく言てしまうと、自分に跳ね返ってきてキツイのだ。




では、観客席に誰かいてくれるとか思わないほうがいいのかと言われれば、それも違う。

観客席にいるのは、やはり、まぎれもなく、自分。自分ひとり。

結局、主人公と観客のアウフヘーベン。

難しいしつらいのは、自分が主人公になったり、主人公で居続けることではない。

自分のドラマに対して、観客で居続けることだと思う。




もちろん若いしとには、そんなこと言わない。
思いきしかっこつけて、主人公を演じればいいと思う。
いけるとこまでいって、それこそできれば最後までやり切って、賞賛の嵐に塗れて、幸福感に抱かれて逝くことを目指せばいい。


全員がそうやって行きっぱなしの世の中だと、
地球は滅ぶだろうけど。でもそれでいける人も確かにいるのだからさ。




僕はね、もちろん、残念ながら、
僕は、違う。


そういう意味では既に絶望を抱え、人生の主人公を演じ中。


幸い、ここまでの人生は相当にドラマティックである。


これからも観客で居続けてやるさ。



人生は、ドラマだ。(キリ)
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視線で好きになる
Mon.05.11.2012 Posted in Quint
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先日、仕事で撮影に立ち会った。

設定では、役者の人がカメラに向かって話すことになっている。
その際、カンペがカメラのすぐ下に出されていて、役者さんはそれを読めばいいことになっている。
それで万事うまくいくと思いきや、実際にモニターをチェックしてみると、役者さんの視線が下に落ちているように見えてしまう。
(実際に下に落としているのだが)
ちょっと試しにカメラ目線にしてもらうと、やっぱり視線が合うと全然違う。
視線が合うと、視線が合うだけで、何かわからないけど電気信号が確実に送信されてくるのがわかる。
視線が合うと、ああ、これ(この会話)は、自分に向けられているのだ、と人は感じる。



**

視線については、負い目がある。
誰にって訳じゃないのだけれど。
言ってみれば自分に。

視線について最初に意識したのは、小学校低学年のときだ。
その頃、親から「先生が話しているときには、先生の目を見なさい」とよく、いやたまに言われた。いや正確には言われていないかもしれない。
とにかく子供の頃には、これを読んでくれてるあなたと同じように、集中力というものにすこぶる自信があった。
それはどこにわかりやすく表れたかというと、話してる人から一秒たりとも目をそらさない、ということだった。
自分の中で非常にシンボリックで端的で容易な行為は、中学生になって自分の内的(外的にはなかったから)反抗期とともに消えていったように思う。
何があったのかは覚えていない。
同時に集中力は有限になり、いろんな意味で一途凡の道を歩み始めたと思う。

あのとき、視線をそらすべきではなかったのではないかと、よく思っていた。
あのとき、というのはどこかの具体的な一点を言っているのではない。
自分から、ある種の緊張感からの解放があった。

そしてそれから戻ってこなかった。
僕は手放した。


**

この前、永田ジョージのライブで、僕の席は一番前の右の端から3番目だった。
一番端にいたのはボーカルの女の子の知り合いだったみたいで、ボーカルの子はライブの途中何度かその人と目を合わせていた。
その都度、僕を彼女の視線が素通りしていった。

僕は彼女が好きになれなかった理由をライブの後しばらく考えていたのだが、どうやらあの視線の素通り(の八つ当たり)が原因ではないかと思い当たったのだ。
文字通り、(相手のだけど)眼中に入らないのだから好きになりようがない。
僕のことが見えない人を好きになりようがないのだ。

そんなことで人を好きとか嫌いとか言うな、というようにも考えられるが、そう意識的に思ったほうがいい。
人の前に立ったら、ひとりずつきちんとと視線を合わせるべきなのだと。
人に好きになって欲しかったら、まず自分がきちんと視線を合わせなければ、ね。


**

さて、仕事はさておき、自分は視線を合わせるとか合わせないとか、そんな気にする日常ではないと思っていたのだが。
少し前にある人と飲んでいたら、こみやさんは視線を合わせないよね、と言われたことがあって、それは心中たいそうドキリとしたのだ。
それは別にその人が好きだから好きじゃないからという話ではないのだが(そういうテイで書いてしまっている気もするがそうではなく)自分が視線を持ってない、という指摘に聞こえたからだ。


うん。視線を持ってない、という、そんな感じ。


視線が合わない人を人は(僕は)好きにならない。



おいおい。たのむぜオレ。



また視線を持てるのだろうか。

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