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ふたつをつなぐもの
Wed.27.09.2006 Posted in γ
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瞑想の本を読んでて、ちょっと手を止めた。


腕や足は自分の意識で動かすことができる。
でも、心臓や胃などの内臓は意識して動かすことはできない。

しかし、その中にあって、呼吸筋というのは非常に特殊なコントロールが可能で、無意識と意識の動きが両方存在する。

我々はみな、自分で作り上げた自我の意識というものを持っている。
その意識の外側に、心臓の鼓動とか胃や腸の動きとか、免疫系の動きとかがある。

それを含めて自我だと捉える人生のレベルを「ケンタウロス」という。
今の自分の状態は「自我が体をコントロールしている」という風に信じているが、それはまったくのウソなのである。

ケンタウロスというのはギリシャ神話に出てくる、上半身が人間で下半身が馬の姿をした架空の動物。
心と体が一体になった状態を架空の動物に例えてケンタウロスというのだ。

そこまでいくと、心と体の違いがなくなってくると言われている。
(宇宙の話、宇宙では物質とエネルギーを同様に扱う、って話を思い出すだろ?)

逆にケンタウロスに達していない人は、ちょうど騎手が馬を操るように、心が体をコントロールしようとしているのだ。


まさに呼吸というのは、「意識」と「無意識」のふたつの世界を繋いでいる。


*

頭にぽろぽろ浮かびだす。メタファーオタクゆえに。笑


*

前意識 (ぜんいしき,ドイツ語:Vorbewusste) は、フロイトの精神分析に由来する深層心理学の概念で、通常は意識に昇らないが、努力すれば意識化できる記憶などが貯蔵されていると考えられる無意識の領域である。

無意識の領域に存在すると考えられる記憶や感情、構造は、通常、意識に昇ることはない。
それ故にこそ、それらの記憶や構造は、「無意識である(気づいていない,unconscious)」と言われる。

しかし、確かに知っていると思えるが、具体的にどういうことであったのか思い出せない記憶とか、知識などは存在する。
思い出そうとする努力を通じて、そのような記憶や知識が意識に甦り、思い出されるという経験も多数ある。

あるいは、まったく忘れ去っていた、またはそんな経験などしたこともないと思っていたことが、思いがけない何かのきっかけで記憶に甦り、思い出すと言うようなこともしばしばある。

無意識(Unbewusste)の領域にあったと考えられるが、何らかの努力や契機において意識に昇るような記憶や知識、感情等は、「意識の領域」と「無意識の領域」の両方の領域に存在することになる。そこで、このような「心の領域」の特定部分を、「前意識の領域」と称し、略して、前意識(Vorbewusste)と呼ぶ。
(Wikipedia)


*

「呼吸」

「前意識」

それらが、ふたつの世界を繋ぐものならば。
意識と無意識を繋ぐものが、「呼吸」であり「前意識」であるならば。

同じように、見えるものと見えないもの、両方を見ることが「半眼」であるならば。
(※仏像の目は半分は外(の世界)を見、そして半分は自己を見つめる、あるいは目には見えないものを見る。)

「ある」ものと「ない」ものを繋ぐものが、(色即是空における)「空」の概念ならば。

できることとできないことを繋ぐものが「メタファー」や「アナロジー」の駆使ならば。


それらを繋ぐものがある。

それを「わかり」「感じる」ことができれば、とオレは思っている。


*

繋ぐものがない世界は。

例えば、「測れる物」への執着は、繋ぐものがない社会観をつくりあげている。

経営者の多くの致命的な失敗は、測れないものは管理できない、測れるものによって管理するのだ、という誤解による。



オレは同じような罠に落ちていまいか。


*

ふたつの異なるものを繋ぐにはどうしたらいいか。

弁証法では、正反合という概念がある。
正(ある命題=テーゼ)と、反(それを否定する命題=アンチテーゼ)を綜合(シンセサス)することでより高い次元の真実に至る(止揚[しよう])展開をいう。


(この3週間にオレは何回「止揚」という文字を打っただろう!)


そうだ。繋ぐものが大事なのだ。


*

関係は物質より本質的である。

そして、本質的な存在は、「個」であり「全体」である。

*

たとえばアメリカの社会学者(哲学者でもあった)ミードは次のように述べている。

「もしもコミュニケーションが完全におこなわれ、とことんまで遂行されたら、個人が、その人の遺伝という可能性の枠内でできるかぎり高度に発達でき、さらには自分が影響を及ぼしている他人たちの態度にまで参入できる。

そこではすべての人が共同体内に自分が呼びおこしたことを知っている反応を自分自身のなかにいだくだろう。
こうしてコミュニケーションは、意味深長な意味でその共同体における組織化過程になっていく。
それは単なる抽象的シンボルの移動過程ではない。
それはいつでも、他人たちのなかに呼びおこすのと同一の行動傾向をその人自身のなかに呼びおこす、社会的行動としての身振りである。」

*

ならばインターネットはどうか。
個であり、全体ではないか。

量子はどうか。
素粒子を100個の穴をあけた壁の向こうから素粒子を飛ばすと、すべての穴を通ってこちらへ来る。
素粒子は「ひとつ」であり、「たくさん」である。

地球はどうか。
個であり、全体か。

宇宙はどうか。
個であり、全体か。

心はどうか。
個であり、全体になれるだろうか。


*

頭がいかれちまった、今日は。


↓天外さんはソニーで執行役上席常務を務めた。AIBOを企画開発した人。
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胸をはる秘密!
Tue.26.09.2006 Posted in γ
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オレが合気道をならっていたのは意外と知られてますが、(知られてないんじゃないのかい!笑)合気道をならうと確実に「気」の存在を疑わない。

ところが、サイエンスでは何も教わらない。
これはどういうことなんだ。

ないのか?

あるのか?


*

ある日、深夜にNHKで高校生むけの理科の番組の再放送がやっていた。

ぼーっと見てたんだ。
そしたら、大学の先生が、言ったんさ。

「君たち、宇宙は何でできているかしってるかい?」

ドキッとして、慌ててペンをとりましたさ。

だって、宇宙って何でできてるの?


*

先生の言うことには、宇宙は「なんだかわからないけれど、なんかエネルギーがあって、それは暗黒エネルギーと呼ばれてるんだ。それが宇宙の73%...」

アンコクエネルギーっすか。

先生曰く「残りのうちの23%はなんだかわからないけど物質があって、それは暗黒物質といわれている...」

アンコクブッシツっすか。

「そして残りの4%がようやっと我々が知ってる水素とか窒素とかなんだよね。」

たった4%っすか!

「不思議と思ったかもしれないけど、宇宙ではねエネルギーと物質は同じ計測できるものとして考えるんだよ。」

エネルギーと物質を同じ土俵の上で捉える...ほほー!


*

オレは、深夜のNHKに震えた。

カミサマ、コレッテ人間ノコトジャナイッスカ?!

オレがもともと「フラクタル」や「メタファー」オタなのはカミングアウト済だが、それ故オレはこの番組を見てスーッと理解できたのだ。


「そうでしょ!人間はエネルギーでできている!」


*

人間の70%は水分?

ばかたれ~い!人間の70%は、まだなんだかわかってないエネルギーなんじゃい!

そして、なんだかわからないけど、カラダの中を流れている物質が残りのうちの20%を占めるんじゃい!

水分とか、たんぱく質とか、そんな「今の時代で確認できる普通の物質(これをバリオンという)」は、たかだか10%にすぎないんじゃい!

と、オレは間違いなくメンチ斬るだろう。


「つまりオレは、コミヤエネルギーのかたまりなんじゃい!」


*


そう考えると、なんだか「気」も人の「気配」も「オーラ」も「魂」も「心霊写真」も「幽霊」にもサイエンスが与えられる気がしてくる。

「人の意識には質量があると思うのよ。それが発見されてノーベル賞が与えられたら、オレが先に言ってたと証言してくれ~~ エヘヘ。」

と、今まで酔うとよく人に言ってきたのだが、本当にもらえそうな気がしてきたというもんだ。


*

「気」が存在することを我々は体験的に知っている。

落ち着いている、というのは「気が」体(の丹田に)落ち着いているのである。

同時に「あがっている」のは「気が」頭のほうにあがっている、ということ。


人間は傷つくと「手当て」をする。

手のひらにある、労宮というツボは、最も気を出しやすく、また気を感じやすいツボである。


また、胸の中心にある膻中というツボは、感情を受けとめるポイントである。

手を胸にあてる=労宮を胸の中心の膻中にあてる、というのは自分で感情を受け止める自分癒しの方法でもある。


気があがってくると興奮に、下がってくると沈静になる。

両手を大きくゆっくり後ろ回しすると気持ちが高揚してきて、ゆっくり前回しにすると落ち着いてくるらしい。

これも、自分で自分の気を動かしているからだろう。


*

つまり、オレは今日、どこかの怪しい人よろしく「宇宙の構造は、人間の構造のメタファーである」と言ってる。

メタファーって言うか、例えてるのは現代人がまったく2者に関係性がないように感じているから例えば、という表現、すなわちメタファーを駆使してるわけで、そもそも同じなんだ、フラクタルなんだから同じなんだ、という風に捉えるほうがイケてるように思う。

オレはよく「意識と行動」って表現をするわけだけど、もう少し自分視点に下げてくると、「意識と姿勢」っていうのも同じ構造なんだと思う。

子供の頃からの猫背が、オレの人間形成に(見かけ以上の)少なくない影響を与えてきたのだろう。


これからはそうはいかないぜ。

胸を開いて、姿勢を正していこうと思うわけだ。

(前にもこんなことどこかに書いたな。ま、いっか。)


なにはともかく無意味に胸をはれ、オレ!


恋愛のサイエンスに悩む
Sat.16.09.2006 Posted in γ
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9月になってはじめてのブログだ。

なんでこんなに時間が開いたかというと、内職でコラムを書いたり、「講」のことを考えたりしてたから。

今日も「講」の準備を(名目上)しているのだが、なかなか気分も乗らず、、、この時間でもまだフレームに対してどう肉付けするかが見えてこない。解決策のシナリオなし。言ってみればまだ骨しかない状態。それで、ブログを書きながらもう一度整理することにした。

あたりまえだ。

テーマが「恋愛」だなんて。(笑)

恋愛に科学方法論を持ち込むなんて、しかも横手間にやろうなんて、オレも甘いな~と。


でも、どうにかなるさ。とか思って気楽にしてみたり。


しかし、このテーマ、考えるほどに広範に思いが及ぶ。
関連する科学の項目も果てしなく広がるので、3時間で骨格を表そうと考えるとまた難しい。


*

科学が「なに」(What)と「なぜ」(Why)に答えることだとすれば、恋愛とは何か?なぜ恋愛が存在するのか?というものに答えていくことになるのかもしれないのだけど。

「講」がやりたいのはもちろん恋愛哲学じゃなく、答えの出ない自慰問答でもなく、イデオロギー作りでもない。


単に恋愛を科学で斬って斬り捨てたいのだ(笑)
(※特に怨みはない)


*

で、リアリティを捉えるために、今日は敬愛する今田高俊先生を参考にしたりして、自分が続けてきた方法論に当て込むことを考える。

主体を自分に置き、まず主体の行動と意思決定のベースを見出し(自己認知)、それを帰納的アプローチの礎とする。つまり、自分を知って、自分の求める恋愛仮説を立てるわけだ。
よって帰納的アプローチに関しては、自分を振り返ればいい。
そこから自分の恋愛の傾向、共通項を拾い出し、仮設の材料とする。


で、次は演繹的アプローチ。具体的で、利用しやすいものを使えばいいだろう。
自分の恋愛におけるタイプや価値観を理解できるものを用意しよう。
ここも、具体的な準備をすることはさして難しくない。


さて、通常ならこの前者と後者をもってして、”例のY型モデル”に当てはめて、アブダクション(遡行推論)を試みることをしたいわけなのだが。
(※前回の未来予知も、前々回の宇宙レストランも、そのアブダクション自体については他者がすでに作成済のものを見、”楽しむ”ことで終わりにしている)
(※※例のY型モデル=就活予備校ではこのように使われた

今回はそこら辺で思考がいったりきたりしているのだ。
板橋的に言えば、ここの落としどころについて”神が降りてこない”。(苦笑)


*

無理しないで、経営の3Cと同じ斬り方で、自社(Company)のベクトルを顧客(Customer)に向ける。
すなわち「自社の思いを顧客のニーズに摺り合わせる」というロジックをメタファー展開し、「主体の想いを恋愛対象の想いに摺り合わせ」ればいいのかもしれない。

ただ恋愛の場合、あたり前田のクラッカー(?)だが、パートナーという個の存在が際立ってアポジション(同格)なわけで、これをできれば含めて斬りたい。
よって例の”Y型モデル”はふたつ存在し、改めて、自分で立てた自分の恋愛仮説Aと相手の立てる相手の恋愛仮説Bの摺りあわせが発生する。

そこで摺り合わせ用に、ひとつ高次の”Y型モデル”を用意することになる。


*

ステップ的に重要なのは、2つの仮説の存在について、新たな解をどう導くか、だ。
”2つの存在”について、”×かける”なのか”+たす”なのか、とかな。”-引く”ではないだろ?

通常、まず自分の仮説に意味解釈を正しく加えていくとして、参与観察やエスノグラフィーを用いるんだろうが、さて、どうしよう。
相手を見抜く、という意味では、それこそ心理学的手法の応用とかいろいろあるわけだけれど、心理学のクイズをするのも「講」っぽくないからな。カウンセリングで学ぶ”傾聴”技法とケーススタディが参与観察的役割を果たすことにすればいいのかな。
それが統合された2者の恋愛仮説Cのヒント。

で、やっぱり基本に立ち返って”Y型モデル”で考えて、自分の恋愛仮説Aを今度はスタートポイントにして、統合された2者の恋愛仮説Cに向かってベクトルをつくるわけだな。

つまり、方法論から考えれば、自分の恋愛仮説Aをそのまま対象に受け入れてもらうとか、その逆とか、単純に”+たす”とかじゃないはずなんだな。

(ここでちょっと現実の恋愛における「私の気持ちなんか知らないくせに!」なんてよくあるセリフが聞こえてきそうになる。そうじゃないんだよな。)

そして自分の恋愛仮説Aが、2者で共有できる恋愛仮説C、言ってみればスーパー恋愛仮説Cに行き着くには、自分の恋愛仮説Aについてメタファー的展開をして有限から無限を作って摺り合わせたり、恋愛仮説Aと恋愛仮説Bをメタ統合したり、究極のアウフヘーベンを展開したりすればいいわけだな。

そしてそれは恋愛対象から見ても同じである、と。


*

さて、それでも問題はまだあるぞ。

例えば、勝つための方法。
それはまたやればいいか。いいよな。


*

いや、まだあるぞ、すっげーでかいのが。実は本丸だったりするのが!

それはつまり、アプリオリの世界を入れるかどうか、な。

語らないと結局は納得感ないかもな。
恋愛なんてプラグマティックに斬らないと納得感ないよな。


恋愛は、フィーリングってね。
感性は、、、感性はどうするか。

「私、毛深い人は駄目なんです!」とかな。

メタファー的展開をするとさ、、、「オレのことはクマだと思ってくれ!キミは動物大好きだし!」みたいな解決とかな。
アウフヘーベンするとさ、、、「オレも二重まぶたが好きなんだが、好みと違うのはお互いさまとしてこだわるのはやめよう!」みたいな?いや「オレも脱毛して、お前もプチ整形してお互い満足しよう」とか?恋愛する前にそんな話あるわけねーし。わかんね。


乱れてきた。。。


*

っちゅうか、そもそも、実際の恋愛がアブダクションから入るのは間違いないよな。
その順序でワークを考えないとブレるってことか?

恋愛のアブダクションは、瞬間にくるわけだ。ビビッときた!みたいな。

しかしそれはあれだぞ。恋愛対象にはまったくもって無関係だ。

だから、自分サイドの”Y型モデル”をつくるときだけに関係するわけだな。


そのアブダクションは、往々にしておおらかで、自分勝手でわがままで、創造性に富んで、感性的だ。

それを演繹的に遡行するよな。帰納的に遡行するよな。
遡行してOKだったら、GOなのかな。

セオリー的には”相手との摺り合わせを始める条件として”GOだよな。


*

するってえとなんだな。

お互いにビビッときた日には、なんだな。そっからお付き合い始まってしまった日には、、、
そりゃーうまくいかないことも多々あるわな。

セオリー的にはその後、越えなきゃいけないハードル、随分あるってことになる。

ま、でも、、、

それが”恋愛”でもいーじゃない。文句あるの?!
って言われたら、、、


文句ないです、ハイ。


*

落ち着こう。

オレが考えてるのは、「講」のコンテンツなのだ。
オレ自身の恋愛哲学の構築ではない(笑)

合う人、合わない人がいる、という概念に異を唱える人はいないだろう。
ちゅうことは、いずれ必ず”もっと自分に合う人を探す”アプローチは発展する。

そしてそれは、科学のファンダメンタルズを当然内包しているだろう。


*

そんなこと考えてたらつまらなくないですか?
いずれパソコンで、自分に一番適当な人がコンピューターではじき出されちゃうんじゃないですか?

なんて言われそうだ。


大丈夫。オレがどんなに頑張っても、科学に追いつくことなんてできないから。
身勝手な言い分で恋愛に傷つけられたとき、相手がどんなに身勝手か、それが客観的にわかれば少しは報われるだろ?(苦笑)

オレは報われるぞ。(超苦笑)


*

それよか、勉強不足だ。
それをいたく痛感した。

今回のブログは、意味わかんないかもな。
かもな、じゃなくて意味わかんないよな。(笑)

でも、来週は大丈夫!骨格さえ決まれば、コンテンツは楽しくつくります。

楽しみましょう。

ブログも次回はもっとわかりやすく!

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