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揺らす人、揺らされる人
Sun.19.11.2006 Posted in γ
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パナソニックセンターにある RiSuPia に、こんな展示物がある。

小学校の校庭にある鉄棒のような工作物に、紐で5,6個のボールがぶら下がっている。紐の長さは長いものと短いものがある。

↓こんな感じ。
furiko


この、ぶら下っているボールをひとつつまんで揺らす。ブランコのように。
そうすると、同じ長さでぶら下っているボールのみが同じように揺れだす。
長さの違うボールは揺れない。

これを「共振」という。


*

あまりきちんとした知識に基づいてないので書くのをまだためらうのだが、この共振の実験器具がひとつの現実的な我々の”自律モデル”のような気がしている。

自分で意識的に揺れるという行為ができる反面、他者の揺れに対して共振するように、人間はできているのではないか。


*

我々が意識的に”気”を出すことはできるとして、それ以外にも、つまりそれは呼吸を意識的に行う他に無意識にも行うことができるように、無意識に気を出したり、気を受けたりしていると考える。

”気”や”波動”や”オーラ”というものを(オレが持っている知見では今んところ区 別がつかないので一緒に扱う)通じて、人は相互干渉しながら生きている。

それどころか、おそらく人間が認知する、環境情報(この場合の環境というのは人間を取り巻く外部情報のすべて)とも相互に干渉し合うと考える。

直接的に接触することで、触覚のような刺激として脳に伝わるものもあるし、認知、という意味では視覚情報として入ってくる光の波としての情報、また耳などの器官を通じて入ってくる音の波としての聴覚情報、鼻などの器官を通じて入ってくる嗅覚情報なども、つまりは神経の、電気の”波”として干渉してくるわけで、ここにも無意識に揺らされる共振のモデルがあるように勝手に考える。


*

Sofia の西田社長が、人から出ている波動を感じる、と表現されていたのを思いだす。
波動を感じられる人は、干渉を受けやすい人でもあるだろう、と今ふと思った。

霊感、みたいなほうに話を振りたくはないが、そんなことよく聞くし。
朱に交われば、、、とか。

前に書いた、シンクロニシティ、とかにも考えが及ぶ。


*

共振を起こされる側にいるほうは、良い波からも悪い波からも干渉を受けることになる 。(実際には良い悪いなんてないと思うが)
そして恐らく”干渉”は、いくつもの独立した層で働いていて、それらが平行、競合の 関係にあると思われる。いくつもの層の干渉の結果として、折り合いがついた形の波動を纏って(まとって)いると思われる。


*

物理的な世界のイメージならば、10ピコメートルの電子の振る舞いが頭に浮かぶ。( もしかしたら、もっと100万倍程度微細な0.1フェルミ単位の話なのかもしれない 。)常に動き回る電子の核の内外に動き回る”反応”の結果なのかな、とか。

ああ、物理、勉強しておけばよかった。

まったく話がずれるけど、オレは文系に進んだことをたまに後悔する。
あの時には、自分の学ぶ対象の科目から国語がなくなるなんて想像できなかったから、単純に数学を捨てた。よく考えたら、文系でも数学受験はできたんだし。。。
今、基礎学問として学びたいのは、国語、数学、物理だよな。

オレが、後生大切にするであろう、繋げる、という概念も、いずれは物理的に説明がつくだろうな。


*

こんなことを、つい考えてしまったのは、ここのところの世の中の現象として、公共機 関の、例えば鉄道のダイヤの乱れがあちこちで同時発生して怒り心頭したり、同じようなことで逮捕される人が相次いでシラケたり、いじめが連鎖的に発生して涙がでたりし たからだ。

そしてそんなことはキッカケに過ぎなくて、以前から自分のフィールドで、同じような志を持っている人はいずれ知り合うのだな、と感じていたことがむしろ本線だ。



自分という球が自律的に揺れていれば、同じ長さでぶら下っている球が揺れだす。

まわりで揺れている球が、同じ長さでぶら下っている球ならば、自分も揺れだす。


*

従前のキャリア形成モデルは、それこそ”揺らす人”と”揺らされる 人”のニ元論によって成立していた。いや、今も成立している。

若い人はまだまだ揺らされる時期を過ごすだろうし、人を無理やり揺らす経験もするだろう。


オレには人を揺らすチカラはないな。

それにオレは自律的に生きる道を選んだから、つまり、自律的に揺れる道を選んだから 、それはつまり、まわりに意図的に、強引に揺らされる人をつくらないということ。


でも、ひとりでやっていけるとも毛頭思っていない。


共振できる、しかも良い揺れをもたらす、共振チームをオレは求めているんだな。

オレが自律的に揺れていれば、すべては自然にもたらされるんだろう。

それこそ自律分散型チームなんだろう。

ね!
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モデルを捨てる日
Sat.18.11.2006 Posted in γ
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ボタンを押そうと人が考えてその行為を起こす際、実は体の運動プログラムが先に実行され、約0.3秒後に「ボタンを押せ」という指令が脳から出ているのだ、ということを前に書いた。

といってもブログに書いたという意味で、オレが言ったわけではない(当たり前だが!←オレ偉そうに書いちゃうから)

そのときには知らなかったが、別の本からこれは”アフォーダンス”のことなのだな、と最近つなげて理解した。

アフォーダンスというのは、アメリカのジェームス・ギブソンという知覚心理学者が唱えた理論で、今では主に人工知能の研究に利用されている考え方。


*

環境の中に実在する物体、物質、場所、事象、他の生物など、すべてのものは知覚者に対してなんらかの価値情報を提供している。
簡単に言うと、例えばここに椅子があった場合、椅子は「座る」というアフォーダンスを備えている。


部屋の中にある壁、床、椅子、絨毯、ガラス、さまざまな道具・・・。すべては読者に何かをアフォードしているはずである。床はそこに立つことを、あるいは歩くことをアフォードしている。壁はあなたの姿や声を、外の世界から隠すことをアフォードしている。椅子は座ることをアフォードするようにつくられている。椅子の本質は「座る」アフォーダンスである。すべての道具は、何か特定のことをアフォードするようにつくられている。アフォーダンスをピックアップすることは、ほとんど自覚なしに行われる。したがって、環境の中にあるものが無限のアフォーダンスを内包していることに普通は気づかない。しかし、環境は潜在的な可能性の「海」であり、私たちはそこに価値を発見し続けている。(佐々木正人著:アフォーダンス-新しい認知の理論)


ボタンは「押す」ことをアフォードしている。
それゆえ、人がボタンを知覚すると、先に体の運動プログラムが
実行され、、、という現象が可能になっていると思われる。


*

環境が提供する情報をどのように知覚して反応するか、生まれてからしてきたことというのはその”知覚システム”を鍛え洗練する、ということである。

車を見たとき、幼児と大人では車からアフォードされる内容が異なる。
大人であれば車を知覚した瞬間、その見え方の連続性、音の連続性から、スピードや自分の位置まで到達するまでの時間、避けないと危険かどうかなど多くの情報を察知する。


環境の中の情報は無限である。知覚システムは、動物がどのような環境と接触してきたかによってまったく個性的であり、情報の数に対応するように無限に分化しうる可能性をもっている。知識を蓄えるのではなく、「身体」のふるまいをより複雑に、洗練されたものにしてゆくことが、発達することの意味である。(同)


*

オレは、
①自分が過去の体験から知っていることや、今この瞬間に認知していることから、②価値観-あるべきと考えていること、によって”仮説推論”し、自分が次にとる行動を”自ら決定”していくこと
が重要であり、それをフラクタル化して行うことはすなわち”未来予知”的な行為であると考えている。

そして、そのような行為を、いかに実行し、やりきるか、そのことが”人の成長”のコアなストラクチャーだと確信している。

オレはあきらかに、このプロセスを”考えて行う”ことに重きを置いているわけだが、人間が持つメカニズム自体は、はるかに高度なものを備えているということだ。


*

残念ながら、頭(左脳)で論理的に考えることというのは、原始的な行為だ、と言えてしまうようだ。
うーんそれゆえ、「ハイ・コンセプト」や、「出現する未来」では、右脳的アプローチがとられていくシナリオなのかな。

しかしながら、”椅子”を見て、自分にあっているとアフォードされるレベルまで到達するには、かなりの椅子に接触した経験と、自分の快適さに対する理解が必要であり、それなりに高度な知覚システムを手に入れなければいけないということになる。

そのシステムの構築においては、万人に共通な方法論で斬る、というわけにはいかないから、その場合にはオレの商売上がったり、ということなんだろうか。


*

いや、むしろ、オレがとっている方法論は、リアリティの捉え方という点では、コンサルティング的なアプローチよりはるかに優位だと言える気がする。

既存のキャリア形成アプローチにおいては、自分が人生の設計者になり、その環境に関する地図を書いているようなものだ。
そして、起こるであろうキャリア・イベント、ライフ・イベントに対し、行為のプログラム化を前もって考えておくことを是としている。

これだと、すべての人生イベントに対して、それがどのくらいの確率で、どのくらいの条件で起こるかについて、どれくらい多く詳細に想定できるかで、成功不成功が左右されることになる。

そうではなくて、どのようにイベントに対応するのか、行為のプログラムは実際にそのイベントに際したときに決定されていくべきだ。
プランは地図によるのではなくて、イベントと向き合い意思決定することで”事後的に”決定されていくべきなのである。

これは、現在のAI(人工知能)ロボットの開発に生かされている考え方だが、同時にシャインなどのキャリア・トランジションの考え方(キャリア形成は、就職、挫折、成功、転職などのキャリアの節目に意思決定し決めていくことが肝要とする考え方、そのときに意思決定の軸になるものをキャリア・アンカーという)とよく似ている。(こんなこと言ってんのホントにオレだけだと思うけど)


*

さて、話を戻して、オレが重要だとしている方法論だが、これを左脳的アプローチ、すなわち、考えて成立させるのではなくて、ヒラメキや感性(この言葉は誤解を与えるが)で、オートノミック(自律的)に処理し、行為を制御していくことは可能なのだろうか。


モチロン可能に違いないんだが。


その解は、どうやら「おかれた環境に共鳴・同調する」ことにありそうだ。
ここで言っている環境、とは自然環境とか、社内環境のことではなくて、視覚情報、聴覚情報、嗅覚、触覚などから成り立つ外部知覚情報のことを言っている。

それがまさしく、論理系の協応ではなく、運動系の協応を可能にする、ということなのである。

知覚と行為の協応を研ぎ澄ますのである。
失われた人間の能力を呼び覚ますようなもんでしょうな。


*

運動系の協応が実現している例は、今のところスポーツ科学の分野で確認することができる。

例えば、いつもオレがメタファーとして狙っているゴルフ。
どうして、150ヤード先にある15センチ程度のカップに寄せるようにショットが打てるんだい。
その、ほんの小さなグリップを握る力や角度に対して論理系の協応で応えられるはずがない。

オリンピックの標準記録を持つ走り幅跳びの選手は、助走時に踏み切り直前の数歩は跳躍ごとに歩幅が大きくばらつき、踏み切り版の見え方によって(走る)行為が制御されていることが報告されている。ちなみに踏み切り前の数歩は、時速40キロメートルに近いという。


*

スポーツとキャリア形成はいくらなんでも一緒にしちゃだめでしょ。
そういう声も聞こえますが。


多分一緒。笑

いや、99.9%一緒。


*

行為の制御に利用されている視覚情報をタウ(τ)という。これは接触までの時間情報であり、例えば車がぶつかりそうになったとき、知覚対象から見えている視覚情報の変化から、ぶつかるという情報、加速度の情報、衝突がハードかソフトか、いつぶつかるかなどの情報を得て、ブレーキをコントロールすることが知られている。

これはつまり、アフォーダンスによる未来の予見ということになる。

オレも、転職までのタウを測っていたと考えてみる。


*

現状、原始時代なことを考えると、キャリア形成はマッピングがまだまだ有効であり、オレのように方法論的アプローチを唱えている者すら少ないのは事実だ。ここにおいてすらコペルニクス的転回が起こっていないのに、「認識→解釈→意思決定→実行」というプロセスを制御の流れとせず、情報レベルのインタラクションにより行為を制御していくべきだ、とはとてもいいがたい。

オレが科学者だったら、まっさきに学会から抹殺されるだろうね。
ユングやフロイトのように!?(笑)
いや新たな真理を説いて追放されていった数学者達のように。
なれたらかっこいーが。。。
(こんなこと言ってるのがすでにかっこつけすぎだが)

*

とにかく次は「共鳴と同調」これだね。
ま、オレはリアリティを追及したいタイプだから、無理はしませんが。

あ、なんかこういうこと前にも書いた。

日記のほうかな。




アフォーダンス-新しい認知の理論 アフォーダンス-新しい認知の理論
佐々木 正人 (1994/05)
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