スポンサーサイト
--.--.--.-- Posted in スポンサー広告
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
自転車に乗る
Sun.24.12.2006 Posted in γ
2 comments 0 trackbacks

自分が蓄積した事実(経験や知識)に方向感を持とうとるする(どういう風に利用するかを考える、もしくは意志をもつ)ことで、そこに飛躍した利用法の概念(メタファーやアナロジー)が生じ、有限の”因”から無限の”果”をつくることができる。

それがオレが追っかけている考えだ。

*

生まれ変わり、という概念(精神とか魂の話じゃなくて)を自分のために少し真剣に具体的に考えたとき、経営やテクノロジーのイノベーション、キャリア形成とか語ってきて、もしくはもっと手元のオペレーションレベルのことを語ってきて、自分はさまざまなレベルでそれは実現可能でフラクタルなもの、全体であり個であるものと考えてきたのに、どうして”自分自身”という観点においてはこれほど自由になれないのかと思った。


*

この数日で急速にオレは”生まれ変わりたい欲求”に導かれ、ただ、実際に自分に起こったこともしくは実際の雰囲気というのは、本や音楽やテレビや大事な人との話なんかを通じて昔の感覚を思い出す、もしくは再認識するというようなことだった。それはスパイラルの中に生きているという感覚や、リスタートという感覚で説明できるかもしれない。
でも、そういう捉え方に異論を唱えたくなる自分がいるのだ。

前に進む、ということはどういうことか。


*

ここ10年くらいの間にオレに起きた出来事とおれ自身の”思い”いうのは、「(どんなことであれ)オレはそれらをすべて抱きかかえその上で浮上する」ということにちがいなかった。
オレはずっとそういうふうに望み求めてきた。
それに対して、ここ2、3年にオレが痛切に思い知らされたことは、「おまえにそんな資格はない」ということだった。
いくらそこに自分の誠実さを求めてもそこにドラマは無い。それは新約聖書のヨブよろしく試練でしかなかった。

オレはどんづまっているではないか。笑
前に進みたい。

だからオレ自身の想いの屍の上に、それを抵抗し体を動かして何かを打ち立てようと思ったかもしれない。そういう”屍の上”に立つこと(もっときれいな表現が好ましいけど)は、経験の積み重ね、事実の積み重ねでもあり、それを活かすことがキャリア形成よろしく、オレを未来へと導く。そう思ったかもしれない。

(こんなことを書いていること自体オレは反吐が出そうになり、ああ、だめだめだ、という気持ちになる。落ち込むのではなくて、スポーツの練習で、だめだ、もう一回!という感じ、)


*

そうしたときに、ふと掴みかける思考。ふと取り出す本。

筑波大学の蓮見孝先生は、「感性的思考の特質」を以下のように記している。
(蓮見先生は日産のデザインセンター出身でデザインの形態論が専門)

 直感的なイメージは画像的である
  ・シナリオを有し動画的に発展する

 直感的イメージは、想起に至る動機を有する
  ・何かに執着しているという背景の存在
  ・関連する経験や知識の影響を受けている
  ・無意識下に情報収集、検索行動をとっている

 個々の感情が瞬間的に一つのまとまりに統合される
  ・自説となりえる深い理解が得られる
  ・メタモルフォーシス(変態)の概念に似ている
  ・ひらめきやアブダクションに関係がある
  ・Making-sense ~自転車に乗れるようになった時に似て
   忘れることが無い
  ・思考空間を浮遊しながらまとまりたがっている知識や経験が存在する
  ・好奇心を刺激するイニシエーター(起爆剤)的な情報と統合化に
   働くプロモーター(促進剤)的な情報が存在する

これはオレが野中郁次郎教授(経営学)から学ばせてもらったことやその後の自分の興味の発展をなぞる、まさしく相似形(フラクタル)だと言っていい。


*

今見返して、まったく新しい気付きが埋め込まれているわけではない。
芸術も経営学も同じ、そういう理解をオレにくれた記述。

ただ、今メタモルフォーシスという言葉が頭に浮かび、オレにまた次への思考へ繋がる橋渡しをしてくれたのだ。
理想は自分のオペレーションレベルや、せいぜいビジョンを打ち出すレベルなんかより、ずっと高いところにあるんだ。

ああ、そうなれるものならそうならなければいけないのだな。
ごたくを並べていても、自己満足の領域からなかなか抜け出せないでいる。


*

前回だったか、前々回だったか、思考を止めたら死んでしまう、というような言葉を書いた。

そうか、ある意味、死んでいいのだな。


オレはきっと死ぬのが恐くて恐くて、だからこうやって考えようとする。

ここ数ヶ月で自分に起こったことが繋がっていく。なんかわからんけど、サンクス。

そしていいクリスマスプレゼントになった。

こうやってみたら、準備は結構進んでいるではないか、そうだろ?



後は、自転車に乗れるようになりたい。

スポンサーサイト
(大山のぶ代の声で) ぼくカウンセラー~
Sat.16.12.2006 Posted in γ
0 comments 0 trackbacks
「ようこそ先輩」というNHKの番組がある。見たことある?
今日たまたまテレビをつけたところ、その終わりの10分くらいだった。
有名人が、自分の母校である小学校に行って、特別授業を行うというこの番組、たまたまでなくては見ないんだけれども、いい味を出していることが多くて好きだったりする。
今日の先輩は大山のぶ代よだった。昔、ぼくどらえもん、の声やってた人。

今日の設定は「歴史上の偉人になったつもりで、他の生徒の弱点を克服する相談にのる」というものだった。
番組はもう最後の発表場面。

女の子の相談にのる男の子が選んだ偉人の設定はベーブ・ルースだ。
(どうしてその子がベーブ・ルースを選んのだのかは知らない)

さて、その女の子の弱点とは、「人前に出ると声が小さくなってしまう」というもの。
番組のナレーターが言う。
「ベーブ・ルースになった○○君、昨日はこの相談の回答を ”意識を強くもとう!意識を強く持てば大きな声が出るぞ”と書いていました。」

ほほう。小学生らしからぬ言葉表現。
そしたら、ぼくどらえもん大山のぶ代のコメントがすかさず入る。

「これがこの小学校だけの問題なのか、全国の共通の問題なのかはわからないけど、とにかくみんな回答がテクニックで済まされてしまうんですよ。問題だと思いましたね。」

お、そうであった。オレはキャリア・カウンセラーであったね。ほほう、そういうことですか。
そもそもカウンセラーというのは、こういう相談にのる人のことだったよ。
オレなら、なんて言うだろうか。

そんなこと考えるヒマもなく、番組は進む。
ベーブ・ルースになった○○君の今日、本番でのコメント。
「(外人風な口調で)私も同じだったよ。私も打席に入る前はすごい緊張したよ。だから緊張していいんだよ。緊張しても一生懸命やれば、、、、」
ま、そんな感じのコメント。いや、すまん、全部は覚えてない。笑

とにかく。おほん
立ち位置の変化があった。
他の偉人と化した子供達も一様に、何らかの「いいんだよ(グリーンだよ、と続ける子はいなかった)。」コメントが続く。恐らくはじめはアドバイス的な「こうしてみたらいいんじゃない」コメントが多かったのではないかと思われるが、昨日から今日にかけての間に、みんなコメントを進歩させてきたのだろう。

「お金がたまらない」という弱点を相談された、外国から来て日本語がまだつたない女の子はこんな風に答えた。
「君はサッカーが上手だよ。魚の世話も好きだよ。好きなことを一生懸命やればそれでいいと思うよ。」

*


子供達は明らかに、相手を良くも悪くも「変えよう」とする立場から、「肯定しよう」という立場に変わった。
どうしてかはわからない。見てないから。ま、それでもオッサンは充分満足した。

で、それはいいとして。
ここからは昨日の続き。

オレを含めてカウンセラーな人がしてはいけないこと。
それは、誰かに相談されたときに、間違った”解”を与えることである。
ま、オレの場合、カウンセラーになる以前、採用の仕事をしていたときに、とにかくしょっちゅう学生さんから質問されるポジションにいて、しかもそれは企業のイチ採用担当者の立ち位置を超え人生や哲学に関するような質問もよくもらったわけで、よく考えればそのときオレのカウンセラーという職(というかカウンセリングというスキル)は運命づけられたのかもしれない。

とにかく(今日は”とにかく”が多い?)。
間違った解を与えないにはどうしたらいいか。


うほん
だから諸君、カウンセラーとは解を、解っぽいことを決して自分から口にしないのだよ。

はい、口にしません。
で、どうするのかって?

言わせるんだよ。自分で。
だから、カウンセリング手法というのは、ほぼ傾聴スキルにつきるのだ。
聴く、聴く、聴く。言わせる、言わせる、言わせる。そうしていると、だんだん自分で自分の言葉で語っていけるようになるのだ。

んでもってさんざん言ってもらった挙句、
「君はつまり、こうしたいんじゃないかな。」と決めゼリフを吐く。すると、
「あーーーーー。そうなんですーーーーー。そのとおりです~。」
とうまくまとまるのである。

そのためのスキル。そのための関係構築。
もちろんまったく相手の意見に介入しないわけではないけれど、基本スキルは傾聴なのだ。

*


え、昨日はこんな話してないだろって?

今日、この番組を見ていたら思ったんだよ。ああ、これも同じ「ほんとうをめぐる冒険」なのだって。

つまり、気の利いた大人が使う語彙を当てはめればさ、それが得点の高い”解”として機能すると、子供達は思っている。
いや、それは大人たちも多く思っているわけだよ。

そして解が見つからないとすぐにギャースカ文句タレたりする。もしくは解が見つからなくて不安に明け暮れたりして死んじゃいそうになったり、死んじゃったりする。

でも、解はいきなりには手に入ってこない。

そこに存在するのはフレームや、方法論であり、そこから方法を決め、自分で解を手に入れなければならない。
それが未来のことであれば、解は確定されうるものではなく推論の上のものであるから、仮説推論的に解を導かなくてはいけない。せめてもの拠りどころとして。

それがなぜかわかってない。世の中、”解”合戦だ。耳障りのいい模範的”解”が、そこかしこに溢れている。

*


ちなみにオレが「人前で大きな声が出せない」とか悩みを相談されたらこんな感じ。

まず、大前提として、解は、ないのです。 え、もう聞いた?
だから、、、オレが拠りどころとするのは、フレームとしての正しさ、方法論としての正しさなのよ。
っていうことで、実は相談内容はなんでも同じなんだよね。

それには、まず、その人の様子を、こと細かに聴くのです。
どんなかんじなのか、どうしているのか、とにかく情報収集する感じで聴く。
聴くと、(それはつまり相談者にとっては”話す”と、)オレは事実情報収集ができ、相談者は事実情報の確認ができることになる。

事実、というのはかなり大事。
相談者が”している事実”、というのは、見方を変えると、本人が”できる”こと、になるから。
相談者は、自分の事実=自分のできる事、について、やだ、とか、よくない、とか評価(これをスキーマっていう)をしているかもしれないけど、とにかくそれが事実であり、それは相談者が”できる”ことに他ならない。

それが受容できると、それは”できる”という語感がそのまま示すように、自己肯定感へとつながっていく。
同じ事象に対峙しているのに、評価を取り除いて単なる事実と化することによって、自己否定を自己肯定に変換することができる。
それは相談者に次のステップを踏み出す意欲をもたらし、そして問題の解決へ、、、という感じ。
わかるかな。

で、さっきも言ったけど一般的に(キャリア)カウンセラーのスキルは何かって言うとさ、そもそも話をしてもらうための信頼関係を構築するスキルだったり、事実関係をひたすら聴くための傾聴のスキルだったりするわけよ。(あと履歴書の書き方とか、アホみたいなスキル)

※ちなみに今どうしてもう一度 ”カウンセラーのスキルは何かって言うとさ” ってわざわざ書きだしたかっていうとね、
(だって今まで書いてたのが全部カウンセラーのスキルでしょ、って思ったでしょ?)
カウンセラーって、こうした方法論とか、フレームみたいなものって、まったく教わらないんだよ。
っていうか、こんなこと考えもしないで、みなカウンセリングしてると思う。

じゃ、関係構築のスキルとか、傾聴のスキルとか、それ以外の方法論とかフレームの勉強はどうしてるの?って聞きたくなるよね。

どうしてるの?オレが聞きたいぜ。

そういう意味じゃ世の中には、怪しいカウンセラーいっぱいいると思うよ、オレ。うん、90%くらい、コワーイ!
あ、むしろ今日のオレがコワイ?なぜそんなにムキになってるのか?


だからそれは、オレが今かなり生活をかけて夢中になっているのは、「ほんとうをめぐる冒険」であるからなのだな。

うん、それがわかった!今日!

めでたし、めでたし。

*


※カウンセリングについて一部かなりのブログ用強調・脚色・主観がはいっているかもしれません。カウンセリングという仕事を軽率に語ることがここでの目的ではありません。ちょっとテンポ良く語りたいだけ(笑・それはウソかも。いい意味での警鐘か!うん、それはカッコイイ)ですので誤解のありませんよう。キャリアカウンセラーはもちろん、それ相応のスキル獲得、学習をこなさないと取得できない公的資格です。




本当のことをめぐる冒険
Fri.15.12.2006 Posted in γ
0 comments 0 trackbacks

オレにとって、正しいこと、ほんとうのこと、というのは重要なキーワードである。そのきっかけは何であったか、それも明確であるのだが、まあ、それはよいとして。

この5、6、年はまさしく”正しいことをどのように求めるか”、とにかくそれに固執してきたように思う。

*


例えば、オレにとってすこぶる正しいこと。

皆”未来に向かって生きている”ということ。

将来、とか夢に向かって、ということではなくて、皆、今というこの瞬間の積み重ねの中に生きていること。
つまり今を、次の瞬間にむかって生きているということ。

だけど人間はその都度、今という瞬間の都度、目や耳などから入ってくる情報を処理して対応しているのではなく、その次に起こることを推論し、それをコントロールして生きている。
だから認知はどのようにされるか、推論をいかに行うかってことを知ることはオレにとってすごい重要、ということになる。

そしてまた、”次に起こること”を知るための知識の獲得にこだわるのは、皆が、未来に向かって生きている、顔を上げて今を生きている、その一瞬の場に立ち会うことを自分の仕事にしたいからに他ならない。

*


「方法論」という言葉に惹かれるようになったのも、次に起こることを知ることが重要なテーマになったからだ。
つまり解をひとつ、これが正しい、と示すことは本質的に誤っていて、解を導く原則や、法則のなかに”ほんとう”があるような気がした。

だから電子の配置からそれに惑星配置が相似であることを導き、新たに小惑星セレスが発見された”テティウス・ボーデの法則”や、元素の周期律表から後に必ず発見されるであろう元素を立体的に予想し、かくしてその通りに新しい元素が発見されたことについて、「未来予知を確たる根拠を持って行った事例」として、とても価値のあるものだと感じるのだ。

そしてその後、野中郁次郎などを通じてそれは帰納的なアプローチと、演繹的なアプローチの綜合である、仮説推論(アブダクション)として科学の世界では主流になっているものだと理解するようになり、非科学の世界ではそれは哲学を通じて止揚(アウフヘーベンである)と理解できるようになった。それをどのように手に入れていくかということもプラグマティックやシンタクティックといった観点で紐解いていけそうな、そんな雰囲気は掴んできた。

それは、視点を空ほど高いところまで持ち上げれば、未来予知とか、世界の原理原則に少しでも近づくもの、とかなるのかもしれないが、身近なところでは、明日のオレはどうしよう、という程度のことである。いや、実際には方法論に触れたところで、それを日常に組み入れるほど、オレは何かを達観したわけではない。教科書をみながらブツブツ暗記を試みている使えないロボット受験生と同じようなものだ。

要はまだまだだ勉強が足らないってこと。

*


理屈や価値観というものは、後天的なもので絶対的なものではない。
それは、あまりに近視眼で短絡的で、身勝手な存在で、そんなことに傷つけられたことが何回あるだろう。
いや、傷つけたことが何回あるのか、オレは気にも留めずに生きてきた。

そうして、少しでもほんとうのことを見る視点をもって生きることで、オレは少しまともな人間になりたいと思っていた。

現実には、そういうオレの態度は、それ自体がオレの価値観であるということになり、オレはこれ以上ない自己嫌悪に晒されることになる。

それは、諦めにも似た心境であり、オレに”人は自分以外のコンテクストをもって他人を理解することはできない”というある種の結論をもたらした。

それでも、オレはこうして前にもう一度進み始めて、やはり前へと進んでいきたい、と思っている。

多分、違うのだろう。
自分のコンテクストを持つ時点で違うのだ。

自分のコンテクストを捨てるところから始まるのではないか。

*


ブルカニロ博士が、ジョバンニに言う。

みんながめいめい自分の神さまがほんとうの神さまだというだろう、
けれどもお互ほかの神さまがしたことでも涙ががこぼれるだろう。
それからぼくたちの心がいいとかわるいとか議論するだろう。
そして勝負がつかないだろう。

けれども、もしおまえがほんとうに勉強して実験でちゃんとほんとうの考と、うその考を分けてしまえば、その実験の方法さえきまれば、もう信仰も科学と同じになる。

宮沢賢治がブルカニロ博士に言わせたように、一生懸命勉強して「ほんとうのこと」を知る方法を手に入れれば、それは人々が自分の神さま(自分の考えや価値観のよりどころ)が異なることによって争ったり、政治が異なることで争ったり、歴史が昔だったり今だったりすることで正しいことが180度変わってしまったりしなくなれるのだ。

なんで売春をしちゃいけないのか、とか、いじめられっこになるくらいならいじめっこになったほうがいい、とか、お互いいい思いをするのになぜ賄賂を渡しちゃいけないか、とか、オレはそういうことをわけわかんない次元で語り合うことについて、どうにもいたたまれない気持ちになる。

もちろん、オレがいつもそこまで崇高なスタンスでいる訳じゃない。
そしてオレは確かに、近代国家的、法治国家である今の日本という国のコンテクストをもってしか、これらのことに解を見だせない。

ただ、それに絶望しているわけでもない。

オレが仕事としてそういった正しさを導く実験を、例えば人のキャリア形成支援にあてがって、それで対価を得るのであれば、それはそれくらい具象的でなければならなくて、ある意味矮小化されたものでることは仕方がないことだ。

オレはそれを許しているし、それをどうにか乗り越えたいと思っている。
そして最近、その扉を開く鍵は芸術なのかな、と思った。
(それはまた今度)

正しさは、もともと知っている。自然としての体が。
そういうことを思い知らされるのだ。

ジョバンニが胸がいっぱいになって走り出したように、オレもいろんな感情をすべて抱いたまま捨てることなく、走っていこうと思うのだ。




宮沢賢治「銀河鉄道の夜」精読 宮沢賢治「銀河鉄道の夜」精読
鎌田 東二 (2001/12)
岩波書店

この商品の詳細を見る
そしていつかまた手放す
Sun.03.12.2006 Posted in γ
0 comments 0 trackbacks

人は
まっすぐにものを見る目を持って生まれ
後天的に獲得した斜めに見る目をもてはやし
いつかまた手放していく
ならば早くに手放した者勝ち
そうすることが難しいこの世ではあるけれど


*

バガボンドを描いている井上雄彦が単行本の中で記した言葉。

バガボンドは、吉川英治「宮本武蔵」をベースにしたマンガ。
主人公宮本武蔵が、故郷の村を離れ、数々の斬り合いを経て成長し、運命の佐々木小次郎と勝負の日を迎える過程を描いている。

武蔵が全国を流浪中、いずれ対決することになる小次郎と偶然接触した武蔵は、そこで重要な“気づき”を得る。それは何かと言うと、
「今まで(斬り合いに)勝ってこれたのは偶然である」「かつて自分は幼少の頃、自然のなかで、木々や風や水と一体であった」「それらはみんな同じでひとつのもの」「それはまさしく理であった」「どう振るか、どう斬るかは刀が教えてくれる(ことを思い出した)」といったもの。

かつて自分は「理」の中にいた。それなのに、それから自分を遠ざけてしまったものは何か。傲慢だった父や、自分を置いていった母や、受け入れてくれなかった村の者達か、、、
そしてそれは自分自身(の意識)であったことに気づく。


*

テレビで、人間の究極のセンサーとして、五感を発達させて生活している人を紹介していた。
例えば、目の見えない人が、クリック音(舌を使ってテッ、タッという発音)を発することで、目の前にあるものの距離、高さ、幅、質(硬軟)などを正確に掴み、健常者とまったく違わない生活を送っている例などを紹介していた。
他にも、言葉や文字に“色“がついて見える人などを紹介していた。
(その人によると、数字の5は黄土色、アルファベットのAはきれいなピンク色だという)

かれらがそういった認知をしているとき、脳がどのように反応しているかというと、例えば誰かの話を聞いているとき、聴覚を司っている部位のほかに、視覚を司っている部位も強い活動中の反応を示す。


*

うろ覚えだが、脳の一部分が何かの原因によってダメージを得て機能停止になるとする。例えば、そこが言語を司る部分だとすると、言葉を失うことになる。ただ、脳ではどのようなことが生ずるかというと、機能停止した部位(意識的な命令信号が届かなくなった部分)に対して、隣の部位機能が侵食を始めるのだ。
つまり、言語機能を司る部位の隣が仮に聴覚を司る部位だった場合、聴覚機能部位が、隣の元言語機能部位にまで侵食して広がり、結果として、その人は言語機能を失ったが聴覚機能を特異な領域までに発達させる、ことになる。


*

脳の大体どの部分が、どんな機能的役割を担っているか、近年の研究で明らかになってきている。ただ、それは絶対的なものではない。
脳は、役割分担をしつつも「全体であり、個である」フラクタル構造を持った存在である。つまり、聴覚を司る部分を切り取ってしまっても、それでもって聴覚が完全に失われるわけではなく、聴覚は脳のほかの部分が補おうとする行為によって、その機能は完全ではないが保たれるのである。
そもそも持っているその関係性によって、ある機能がどの程度の能力を発揮するかというバランスが決定され、保たれている。

個がそれぞれ発達して、全体が構成されているのではない。個はもともと全体性を兼ね備えており、それはすばらしい可能性を既に表現しており、むしろ関係性がそこに制御をかけている、ということなのか。


そして逆に考えていけば、「個で全体を見る」ことも可能であるのだ。DNAにすべての情報が書き込まれていることが言いたいのではなくて、手で聴いたり、耳で見たりして全体を機能さえる行為が可能だということだ。


オレはある種の能力開発に興味があって、こういうことを進んで知りたいと思っている。

能力開発の、ある種の正しさを掴みたいのだ。

*

その番組では、能力開発のいい事例も挙げていた。

フランスの香水師の方は、香水師の両親の後を継ごうと[21歳のときに]決意した。彼はその後、嗅覚を高める訓練を自らに課していく。その方法はこうだ。

400種類の基本の香りを記憶する。
その後、調合内容を秘密にした香水を嗅ぎ、400種の組み合わせをあてていく。
作品をつくるときは、まずレシピを作成し、その通りに調合する。できたものをテストし、イメージと違ったらレシピを直し、同じ作業を繰り返す、という。

人間の能力は、後天的に高めることができる。もっとも視覚を失った人も言っていたのだが、音で頭の中に地図を書いていく、それには過去の記憶情報が非常に大切である、と。ここでも基本400種の香りが、すでに記憶情報の中に入っていることが前提とされている。紹介された人は誰もがすばらしい記憶力の持ち主であった。

子供の頃、ピアノを習いかけたことがあるのだが、そこでの練習というのは、和音を覚えること。先生が引いた和音がなんなのか言いあてる、もとい聴きあてることだった。オレは基礎が全く覚えられず、2週間で辞めることになる。

ビジネスの世界が今、感性×××という表現をしているが、正確に言うと“感性”をもってして云々、ということではなくて、まずはこういうある種(機能利用による)の新しい能力開発の段階だということではないのか。

例えば、番組では今までと全く異なるアプローチで、例えば、カラダから発する匂いで初期の乳がんを発見する研究をしている日本企業を紹介していた。

そういうことなんじゃないのか。

その辺の、可能なら共通化できる能力開発方法論と、開発対象の新たな設定、そんなことを見つけていくことに携わることをオレは望んでいる(と思う)。


そこにあるサイエンス(ただしさ)を掴みたいんだ。


*

能力開発は、すべて後天的に身につくものを対象に行われることが基本だ。

それは人生を充実させることを目的としている。

充実?

それを解き明かすには、この寿命はあまりにも短い?

短い?



人間という個は、どんな全体を表現しようとしているのか。



オレが掴もうとしているもの、対象としようとしているものは、あまりにも矮小なものである?

それで結構でしょう、カミサマ?



そして、いつかまた手放す。


*

自分を取り囲むすべての環境、情報が発する「振れ」に共振することで推論し、、、ということをここ数ヶ月追っているが、自分の実生活に、となるとあまりにレベルが違いすぎる。それこそ述べてきたように、論理意識の世界、経営学の世界、文学の世界、芸術の世界といった進度の差もある。



現状において、考えるのを止めること、は死ぬことに等しい。



なんともオレは原始時代に生きているようだ。

いや、まてよ、原始時代は、、、オレは退化の過程を、、、



バガボンド 24 (24) バガボンド 24 (24)
井上 雄彦、吉川 英治 他 (2006/10/23)
講談社

この商品の詳細を見る


topBack to TOP

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。