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創造が未来と過去の綜合だとして 
Tue.30.12.2008 Posted in Quad
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仕事上、創造性についての論議になることがあるのだけれど、他の基礎力開発論議とはどうしても一線を画さなくてはいけないような気持になる。

創造性について考えるところがないではない。
が、僕は仕事上の話し合いの場合、自分の主観をなるべく言わないようにしている。
それは小宮講で書けばいいやと。


例えば、面白いアイディアを「発想」しなくてはいけない仕事があったとする。
(もっとも、大概の事は面白く発送したほうがよいのだけれど。
 まあ、楽しくやる、っていうのがまだまだ許されないのは原始時代だからしょうがないとして。)

面白いことっていうのは、例えば脳が喜ぶ要素が含まれているってことだと思うわけだが。
例えば、新しいことだったり、拡がりのあることだったり、適度なリスクだったり。

それはどのようにして為されるかと。
方法論では正しさしは導けるけれど、面白さ、というのを最後にどうやって実現するのかと・・・
と・・・書いていて、時間軸のずれに気づいた。

具体化されたものの存在>理解(解釈)>(面白さを)感じる

面白さを創るってことは、これを逆算することなんだよね。

(面白さを)感じている>理解(解釈)>具体化して存在させる
として、時間軸を遡ることが求められるわけだ。


**

バッハには、その楽譜を<読んだ>ときに初めて理解できるすごさがある。

っていうのは茂木の本の記述で、(twitterでつぶやいといたのですが)バッハの時代の作曲というのはひどくルールに縛られるものであったのだけれども、作曲のルールをいかに超秀才的にこなせたとしても、聴いて心に響く曲になるかというのはもちろん別の話で、学校でも教えることなどできない、という話だったのだが。

つまり、

心に響いている状態>理解(解釈)>composition:具体的作曲行為

というオーダーの逆循環がもたらされているのではないかと思うのである。

波動、っていうか周波数を、<先に>心が響いている状態や、面白いと感じている状態にもっていくというのが当たり前だけどミソだと思うんだよね。
その次に行うことが非常に重要なわけなんだけど、要は、一番大事なことは、

その状態をキープしたまま、必要な作業を行うことではないのかと思う。
つまり、面白いと感じている状態で、心に響いた状態で、仕事をすると、仕事はそのように具現化せざるをえなくなるのではないか。
簡単に言ってますが。笑

そしてやっぱりその時に活躍するのは、過去の残像なんだろう、と思う。
面白いと感じている状態で、心に響いた状態で、過去の残像を追うのだと思う。

さまざまな過去の残像のかけらが、再編集化されて、新たなモノやコトになるのだと思う。
創造とは、先に未来を確約した状態で、過去に遡ることからもたらされるのだと思う。

そういう言い方をしたら、なんだか創造も過去の焼き直しで、なんだか光を失ってしまったかな。
いやいや、例えば作曲にしても、限られた音符の構成から、こんなにも無限な可能性をもたらしているわけで。

いやいや、リソースが有限なのだから、人間には充分すぎる、無限に感じられるその組み合わせも、有限と言えば有限なのか。
神の掌の上の無限だったとして、それでもいいよな。


**

ちょっと思い出したんだが、感性の豊かな人が好き、なんて高校生の時に言っていた。マセガキだな、まったく。

この場合の感性豊か、っていうのは、勘がいい、ってことではない。似てはいるが。
感情表現が豊かって意味だ。だった。

感情、情を感じる、というのは、言ってみれば相手の波動に自分の波動を合わせるような行為だ。
自分の情を手放して、相手の情を感じる、という行為は、かなりオープンスタンスでないと実現できない。
ある意味、奉仕的だし、リスクの高い行為だ。
そして優しい行為だ。

本を読んで、感情移入するのも、音楽を聴いて感情移入するのそうだ。
それには自分(の情)を手放して、他の情に合わせる行為が伴っている。
野生の王国で言ったら、リスク感知ができていない無防備な状態だな。
(もう一般的な「感性」という表現とは外れてきてしまった。。。)

僕が高校生の頃には、感性本が時代を席捲していた。
村上春樹とか村上龍とか吉本ばななとか鷺沢萌とか僕も読んだ。

なんで今は感性本を読まないかというと、それらは今は自分を救わないと思っているからだ。
自分を手放した状態でいると、弱肉強食の世界で誰かの餌になっちまう、という気がして防御しているのだ。

村上龍も今ではカンブリア~だものね。
我々も次なるステージに足を踏み入れているってことか。

でも、この先感性はまた必要になるだろう。何かに浸るって意味じゃなくて。
具体的に必要になる、そういう気がする。

つまり経済も物理も感性も、本当は分けちゃいけないんじゃないかと、そういう気がしてる。
そこから、いろいろつまらなくなってる、でしょ?

もうすぐ、そういう時代がやってくる。
っていっても僕が死ぬまでには、、、無理かなー。

しょうがないからマイノリティでもいいや。

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自由たらしめるもの
Sun.21.12.2008 Posted in Quad
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現実なんて、いつだって窮屈そのものだ。

ランニングを始めてみて知ったのは自分の委縮した身体能力そのものだ。
昔知ってた体を動かす感覚が、現実にはいまさら再現されないことが確認できて、
でも少しづつ戻していこうと思って、そして思いのほかそのチャレンジは続いてて、
そしてすごくわかったことがある。

それは、戻す、なんて考えは間違ってる、ということ。

これは、ここをスタートとして始めなくてなならない新しい<進化>だ。
といってもかっこいい話じゃない。今はとても進化なんて言える状況じゃない。
大体もう部品がやばい。一回走ってこの消耗?ウソだろ?って思う。
ツケ?
そう、ツケなんだよ、ツケ。

自分の現実を見せつけられるというのは、まったく窮屈極まりないことだ。

だったら、そう、なにしたいんだっけ?

思えば、17歳の時にベスパを買って、その時にオレの世界は圧倒的に拡がったのだ。
グリップを握りさえすれば自分の(人間の)能力をはるかに超えることができたのだから。
それは小さな子供のころに憧れた「想像」の感覚そのもので。
だからそこからまた窮屈な現実に戻ろうなんて、これっぽっちだって考えなかったのも無理ないでしょ?

現実なんて、いつだって窮屈そのものだ。


ただ、こういうことも経験上知ってる。

事実だけが自由をもたらす。
自由になるためには、事実が必要なんだ。

仕事だって身体性についてだって同じだ。
できることをつくってから、一番楽しいことを選んでやるさ。

くそったれめ

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