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本当のことをめぐる冒険
Fri.15.12.2006 Posted in γ
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オレにとって、正しいこと、ほんとうのこと、というのは重要なキーワードである。そのきっかけは何であったか、それも明確であるのだが、まあ、それはよいとして。

この5、6、年はまさしく”正しいことをどのように求めるか”、とにかくそれに固執してきたように思う。

*


例えば、オレにとってすこぶる正しいこと。

皆”未来に向かって生きている”ということ。

将来、とか夢に向かって、ということではなくて、皆、今というこの瞬間の積み重ねの中に生きていること。
つまり今を、次の瞬間にむかって生きているということ。

だけど人間はその都度、今という瞬間の都度、目や耳などから入ってくる情報を処理して対応しているのではなく、その次に起こることを推論し、それをコントロールして生きている。
だから認知はどのようにされるか、推論をいかに行うかってことを知ることはオレにとってすごい重要、ということになる。

そしてまた、”次に起こること”を知るための知識の獲得にこだわるのは、皆が、未来に向かって生きている、顔を上げて今を生きている、その一瞬の場に立ち会うことを自分の仕事にしたいからに他ならない。

*


「方法論」という言葉に惹かれるようになったのも、次に起こることを知ることが重要なテーマになったからだ。
つまり解をひとつ、これが正しい、と示すことは本質的に誤っていて、解を導く原則や、法則のなかに”ほんとう”があるような気がした。

だから電子の配置からそれに惑星配置が相似であることを導き、新たに小惑星セレスが発見された”テティウス・ボーデの法則”や、元素の周期律表から後に必ず発見されるであろう元素を立体的に予想し、かくしてその通りに新しい元素が発見されたことについて、「未来予知を確たる根拠を持って行った事例」として、とても価値のあるものだと感じるのだ。

そしてその後、野中郁次郎などを通じてそれは帰納的なアプローチと、演繹的なアプローチの綜合である、仮説推論(アブダクション)として科学の世界では主流になっているものだと理解するようになり、非科学の世界ではそれは哲学を通じて止揚(アウフヘーベンである)と理解できるようになった。それをどのように手に入れていくかということもプラグマティックやシンタクティックといった観点で紐解いていけそうな、そんな雰囲気は掴んできた。

それは、視点を空ほど高いところまで持ち上げれば、未来予知とか、世界の原理原則に少しでも近づくもの、とかなるのかもしれないが、身近なところでは、明日のオレはどうしよう、という程度のことである。いや、実際には方法論に触れたところで、それを日常に組み入れるほど、オレは何かを達観したわけではない。教科書をみながらブツブツ暗記を試みている使えないロボット受験生と同じようなものだ。

要はまだまだだ勉強が足らないってこと。

*


理屈や価値観というものは、後天的なもので絶対的なものではない。
それは、あまりに近視眼で短絡的で、身勝手な存在で、そんなことに傷つけられたことが何回あるだろう。
いや、傷つけたことが何回あるのか、オレは気にも留めずに生きてきた。

そうして、少しでもほんとうのことを見る視点をもって生きることで、オレは少しまともな人間になりたいと思っていた。

現実には、そういうオレの態度は、それ自体がオレの価値観であるということになり、オレはこれ以上ない自己嫌悪に晒されることになる。

それは、諦めにも似た心境であり、オレに”人は自分以外のコンテクストをもって他人を理解することはできない”というある種の結論をもたらした。

それでも、オレはこうして前にもう一度進み始めて、やはり前へと進んでいきたい、と思っている。

多分、違うのだろう。
自分のコンテクストを持つ時点で違うのだ。

自分のコンテクストを捨てるところから始まるのではないか。

*


ブルカニロ博士が、ジョバンニに言う。

みんながめいめい自分の神さまがほんとうの神さまだというだろう、
けれどもお互ほかの神さまがしたことでも涙ががこぼれるだろう。
それからぼくたちの心がいいとかわるいとか議論するだろう。
そして勝負がつかないだろう。

けれども、もしおまえがほんとうに勉強して実験でちゃんとほんとうの考と、うその考を分けてしまえば、その実験の方法さえきまれば、もう信仰も科学と同じになる。

宮沢賢治がブルカニロ博士に言わせたように、一生懸命勉強して「ほんとうのこと」を知る方法を手に入れれば、それは人々が自分の神さま(自分の考えや価値観のよりどころ)が異なることによって争ったり、政治が異なることで争ったり、歴史が昔だったり今だったりすることで正しいことが180度変わってしまったりしなくなれるのだ。

なんで売春をしちゃいけないのか、とか、いじめられっこになるくらいならいじめっこになったほうがいい、とか、お互いいい思いをするのになぜ賄賂を渡しちゃいけないか、とか、オレはそういうことをわけわかんない次元で語り合うことについて、どうにもいたたまれない気持ちになる。

もちろん、オレがいつもそこまで崇高なスタンスでいる訳じゃない。
そしてオレは確かに、近代国家的、法治国家である今の日本という国のコンテクストをもってしか、これらのことに解を見だせない。

ただ、それに絶望しているわけでもない。

オレが仕事としてそういった正しさを導く実験を、例えば人のキャリア形成支援にあてがって、それで対価を得るのであれば、それはそれくらい具象的でなければならなくて、ある意味矮小化されたものでることは仕方がないことだ。

オレはそれを許しているし、それをどうにか乗り越えたいと思っている。
そして最近、その扉を開く鍵は芸術なのかな、と思った。
(それはまた今度)

正しさは、もともと知っている。自然としての体が。
そういうことを思い知らされるのだ。

ジョバンニが胸がいっぱいになって走り出したように、オレもいろんな感情をすべて抱いたまま捨てることなく、走っていこうと思うのだ。




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