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クランボルツ×クオリア
Wed.31.01.2007 Posted in γ
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「今思えば、あそこでたまたまアレを、アーしたことが大きかったな。もしもあそこでアーしてなかったら。。。」

偶然の行いが、あたかもお約束だったように今に繋がる、そんな気がしたことはない?


キャリア開発の世界において、スタンフォード大学のクランボルツ博士が「計画された偶発性」という表現を使って、能動的にキャリアを切り開いていく考え方について述べている。(今は商標の関係で違う言い回しを使っている)

クランボルツは「個人のキャリアは人生の中で偶然に起こる予期せぬ出来事によって決定されている事実があり、その偶発的な出来事を主体性や努力によって最大限に活用し力に変えることができる。また、偶発的な出来事を意図的に生み出すように積極的に行動することによって、キャリアを創造する機会を生み出すことができる」と言っている。


*

自らの積極的な行動が偶然のチャンスの起因となる”位置関係(関係性)”は疑いようがない。つまりその関係性をもってして、偶然の好機を意図的に呼び込んだ、という一見矛盾するような表現が可能になる、としているのである。

もっとも、このクランボルツの考えを(クランボルツの講演を直に聞いた今でもクランボルツ自身がどの程度サイエンスをもってこの理論を発表しているのかはわからないのだけれど)安易な解釈で世間に広めているカウンセラーを、ネット上だけでも多数見ることができる。

ま、それはおいといて、と。

実は言いたいことは先日、日経新聞の「私の履歴書」を読んでいて、このような(計画された偶発性のような)一見矛盾する表現の中に真実を見る行為がでてくるということ自体がすなわち、他の科学分野に対するキャッチアップが見られたと喜ぶべきなのだろう、と考えたということなのだ。


*

「私の履歴書」という連載を今回担当されていた江崎玲於奈先生の話の中でこんな記述があったのだ。
江崎先生は「素晴らしい発明、発見が生まれるのはどのような研究環境か」と聞かれて、こう答えたという。

萌芽的業績は個人の創造力に負う。そこで優れた研究者を多数集めたとしよう。彼らが個性的、独創的であればあるだけ、独立を求め干渉されることを好まない。一方、研究所長はマネジメントの立場から重点課題に焦点を合わせた秩序ある体制を求める。ここにはちょっとした二律背反がおこる。そこで最も好ましい研究環境を一口でいえば、”組織化された混沌”とでも表現せねばならない。部分的に見れば研究者は自由奔放に仕事を進めているので混沌としているが、研究所全体としてはバランスがとれ、秩序がある状態をいう。(略)オクシモロン(oxymoron、撞着語法)を知ってほしい。それは”組織化された混沌””公然の秘密””急がば回れ”など、対立する語句を並べて新しい深い意味を主張する語法である。


*

ここで江崎先生が書いている撞着語法がもたらす”深い意味の主張”について気をつけなくてはいけないのは、けっして「存外に反対のやり方のほうが正しいものだ」という短絡性に落ち込まないことだ。(その意味において”急がば回れ”はわかりづらい)

つまりそれは「個であり全体である」というフラクタル的概念で理解すべきであり(特に江崎先生の組織論についてそのように考えるとわかりやすい)、二者を包含した新たな三者の姿を現す止揚的な意味なのだと理解していくべきなのだ。

オレの中では、”オクシモロン”も対象とされるモノ、事象の”位置関係(関係性)”を見誤ってはいけないと思うわけだ。


*

もっとも小宮講ではずっとこの考え方を追っていて、<ふたつをつなぐもの>や<関係性についてのいくつかのこと>といった講(ブログ)でそのあたりのことに触れてきた。
だからもうめずらしくもない、と思ってもらえるかもしれない。

オレの近くで話を聞いていてくれた人ならわかるように、オレが使う<3C変形モデル>も、第3の視点(2点を繋ぐ論拠)がもっとも肝な存在となっているわけだ。これが、モノ、事象の”位置関係(関係性)”の表現そのものである。


そして、もうそろそろ小宮講のように、既存のモノやことを斬るといった遊び~検証行為~はほどほどにして、具体化された何かを作り出す行為にシフトしていかなけらばいけない、そうも思っている。いずれにせよ、こうして見たもの聞いたものを振り返りながら書いていく行為そのものに、未来を考える発展的行為があるわけだが。

知っている事実、経験を増やし、それ(過去)を振り返る中に未来があるわけである。
これもすなわち撞着語法的認識であり、ある意味、この思考が真であるが故の、ということで腑に落ちるのだ。

3C

*

創造は過去に向かって起こる。

この前目を通したと日記で書いたBRUTUSの茂木健一郎のテキストには、やはり注目的なものがいくつかあった。
その中のひとつに、このような撞着語法的表現を見た。

何かが創造されるとき、脳のメカニズムとしてはある種の記憶の整理が起こり、その結果何かが生成されるわけだけれども、そのときなぜ過去に遡るという形でクオリアが立ち上がるかが、非常に面白い問題なのです。

※クオリアとは日常用語でいう「感じ」のことである。「イチゴのあの赤い感じ」、「空のあの青々とした感じ」、「二日酔いで頭がズキズキ痛むあの感じ」、「面白い映画を見ている時のワクワクするあの感じ」といった、世界に対するあらゆる意識的な感覚そのものである。(ウィキペディア)

未来について何かを掴むことは、イコール過去に遡り何かを掴むことであり。

未来に向かっているつもりが、過去に向かっている。

それはパラドックスであり、同時にここにまたアウフヘーベンの構造を見ることになり、それはまた考え方が真なるゆえの、ということで腑に落ちるのだ。


*

<そしていつかまた手放す>より

うろ覚えだが、脳の一部分が何かの原因によってダメージを得て機能停止になるとする。例えば、そこが言語を司る部分だとすると、言葉を失うことになる。ただ、脳ではどのようなことが生ずるかというと、機能停止した部位(意識的な命令信号が届かなくなった部分)に対して、隣の部位機能が侵食を始めるのだ。
つまり、言語機能を司る部位の隣が仮に聴覚を司る部位だった場合、聴覚機能部位が、隣の元言語機能部位にまで侵食して広がり、結果として、その人は言語機能を失ったが聴覚機能を特異な領域にまで発達させる、ことになる。

脳の大体どの部分が、どんな機能的役割を担っているか、近年の研究で明らかになってきている。ただ、それは絶対的なものではない。
脳は、役割分担をしつつも「全体であり、個である」フラクタル構造を持った存在である。つまり、聴覚を司る部分を切り取ってしまっても、それでもって聴覚が完全に失われるわけではなく、聴覚は脳のほかの部分が補おうとする行為によって、その機能は完全ではないが保たれるのである。
そもそも持っているその関係性によって、ある機能がどの程度の能力を発揮するかというバランスが決定され、保たれている。

個がそれぞれ発達して、全体が構成されているのではない。個はもともと全体性を兼ね備えており、それはすばらしい可能性を既に表現しており、むしろ関係性がそこに制御をかけている、ということなのか。


*

振り返って考えれば、オレは以前”関係性がそこにかけている制御”という表現をしたが、それはすなわち撞着語法がもたらす”深い意味の主張”のことでもあり、創造もある意味でその関係性の制御からくるということだ。つまり感覚、感じるという行為とも同じものとしてとらえられる。
したがってクオリアを解明することは、その研究対象の”位置関係(関係性)”の解明そのものである。

<味覚体験>
味覚は甘味、酸味、塩味、苦味、うま味の五つの基本味から構成されていると考えられており、これらの組み合わせによって数々の食料・飲料品の味が構成されている。分子レベルのメカニズムは、嗅覚と同様に、舌にある味覚受容体細胞において、鍵と鍵穴の仕組みでレセプターに特定の分子が結合すると、特定の味が体験されることになる。しかしながら、嗅覚の場合と同様、ある特定の形状の分子が、なぜある特定の味をともなっているのか。この組み合わせが成立している背景については、依然何も分かっていない。 (ウィキペディア)

例えばこの場合は、分子レベルの”位置関係(関係性)”の解明ね。


*

小宮講なんだから、人のレベルにシフトしようか。

組織での創造的行為の可能性、すなわち組織が個人の足し算ではなく、組織としての掛け算的成果の発揮ということについて思いを馳せたとき、クオリアをメタファーとすればそれはイコール人間レベルの”位置関係(関係性)”だということになる。

ではその具体的な関係性とは何か。

人間関係がよいということ?

ああ、一言で括るとなんて稚拙な。

それは結局人間に向けられた五感であり、感受性を揺さぶるものである。
サイエンスを捉えていったところが実にベタな話になる。

これもまた真なる故の、ということで腑には落ちる。笑


*

クオリアのメタファー的利用にさらに可能性があり。


クオリアの問題を扱った思考実験に以下のようなものがある。
以下はウィキペディアより引用。

●逆転クオリア
同等の物理現象に対して、異質のクオリアがともなっている可能性を考える思考実験。色についての議論が最も分かりやすいため、色彩について論じられることが最も多い。同じ波長の光を受け取っている異なる人間が、異なる「赤さ」または「青さ」を経験するパターンがよく議論される。逆転スペクトルとも呼ばれる。

gyakuten


例えば、これは波長 630-760 nm の光が網膜に入射すると現れる、赤のクオリアだが、果たしてオレは皆と同じ赤を見ているだろうか。

red


●哲学的ゾンビ
全ての面で普通の人間と何ら変わりないが、クオリアだけは持たない、という仮想の存在。心の哲学の世界で、クオリアという概念を詳細に論じるためによく使われる。

●マリーの部屋
生まれたときから白黒の部屋に閉じ込められている仮想の少女マリーについてのお話。マリーは白、黒、灰色だけで構成された部屋の中で、白黒の本だけを読みながら色彩についてのありとあらゆる学問を修める。その後、この部屋から開放されたマリーは色鮮やかな外の世界に出会い、初めて色、というものを実際に体験するが、この体験(色のクオリアの体験)は、マリーのまだ知らなかった知識のはずである。この事からクオリアが物理化学的な現象には還元しきれない事を主張する。 (コミヤコウ注:この最後の表現は適切じゃないのではないかな)

●コウモリであるとはどのようなことか
コウモリはどのように世界を感じているのか。コウモリは口から超音波を発し、その反響音を元に周囲の状態を把握している(反響定位)。コウモリは、この反響音をいったい「見える」ようにして感じるのか、それとも「聞こえる」ようにして感じるのか、または全く違った風に感じるのか(ひょっとすると何ひとつ感じていないかもしれないが)。こうしてコウモリの感じ方、といった事を問うこと自体は出来るが、しかし結局のところ我々はその答えを知る術は持ってはいない。このコウモリの議論は、クオリアが非常に主観的な現象であることを論じる際によく登場する。

koumori

*

これらはすべて人材開発やキャリア形成の話ににそのまま置き換えられる。
現象的意識や主観的体験という言葉は、クオリアとほぼ同義に使われているとのことだけど、個人のキャリア感は幸福感だったり充実感だったり、つまり感性の領域に踏み込んでいるからそのまま流用できるわけだね。

結局、、、、クオリアは、、、”位置関係(関係性)”の解明は、、、
頑張った割には何も見えてないのか。

でも、理解は進んだぞ。




言い方ヘンだけど、暗黒エネルギーとか暗黒物質とかあの世とか、見えていないほうが見えるようにならないと、これ以上は難しそうだな。
つまり、ここに感受性を欠いてはいけない。サイエンスの精神をもって。

もうこれ以上難しくなるとオレの頭じゃつらいかもなあ。
でも、ナントカしてくれるかも。
茂木健一郎が。

著書、読んでみますかね。







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クオリアクオリアとは意識が何かの感覚刺激を受け取った時に発生する感触のことを指す。例えば「赤さ」は、特定の波長の光という感覚刺激が目を通じて受け取られた時に発生する感触のことであり、クオリアの一種である。クオリアは一般に、言語で記述しきることができず、感


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