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デザインすること、意味付けすること、気を放つこと
Tue.23.09.2008 Posted in Quad
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デザインする、ということはデザインした対象に、何らかの意味を与えることだね。
その基本(ファウンデーション)になっているのがシンメトリー(対象)や、フラクタル(相似)、コヒーレンス(一貫性)といった概念だ。
もちろんデザインされていないマテリアル的な万物何に対してでも、ポジティブアプローチによれば意味を見出すことができる。
(すべては地球がデザインしたもの、ということもできるのだが)
ただ、いずれの場合も、意味を見出すというのは必ず他の一方向からの解釈が必要だ。
マテリアルとしての存在はもともとあったものとしたって、存在の意味はとにかく他者から認知されて初めて成立するということだ。
そして他者から認知されて始めて存在するというのはアフォーダンスを連想させる。
(僕は実際には意味を放つ側と解釈する側にはもっとイーブンな関係性があるんじゃないかと思う。)



「意味」は、「デザインを放つ」ということと「デザインを理解する」ということの双方向の干渉の上にもたらされる。
「存在」という観点でいえば、たとえば他人から無視されることで自分のアイデンティティが損なわれ、あたかも死んでるように感じるかもしれないけど、
<事実自分はそこに存在していて>そのことから目を背ける必要はない。
デザインされたものは、デザインされた瞬間に意味を放つ。命を吹き込まれている。
椅子は椅子としての意味を放つわけだ。
君は他人がどうこう思うまでもなく、もともと存在の意味をきちんと持っているということだ。

デザインされたものを解釈する側がその残り半分の権利を執行するわけだが、そこには解釈の深度の差が発生している。
うざいこと極まりないが。
評価は他人がするもの、というのは企業人の合言葉だ。
芸術というのは、理解する人が現れなければ未完に終わる。



僕らが唯一そのパラダイムから脱出するには、仮想の他者をたてることだ。いつもの言葉で言うと離見の見か。
昆虫が擬態を操るのは、他者の目を理解しているから。
そこには進化の道しるべがある。
自分を解釈することで、自分に意味がもたらされる、それで進化などというのは、いささか近視眼的でもあるように思える。
しかし、自分が生きている間に、できる限りの進化を遂げたい、そういう気持ちが自分にあることを隠せないなら、自己と対峙し、自己から離れることが必要なのだと思う。

自己から離れる、という感覚は、つい最近、ダイアローグを復習していて「保留する」という概念でまたつながった。
保留し続けることで、なぜアウフヘーベンがもたらされるのか、まだそこがわかっていない。
メタファーや、アナロジーではない、そのような次元ではない、仏教的方法論がそこにはあるのだろうか。
「そしてまた手放す」にあったように、日本人はそのような感覚はカルチャーとして端的な理解をしている。
あめりかの人たちがギャースカ言ったところで、びびることはないのかもしれない。



ダイアローグに影響をどこまで受けるのか、自分でも見極めが難しい。
でも、こんなことも思った。
たとえば、和をもって、と言うのと、民主主義、というのは違うのだな、とか。
最近特に、<多数決>というのはどうなのかと思った。
僕はすべては話し合いで、戦争すら解決できる、と思っているかと言うとそこまでじゃないのだが、それでも正解を追及したいタイプではあることには間違いない。

多数決って言うのは、正しさをもたらすのか?
これは致命的に欠陥のある意思決定の仕組みなのではないか、とすら。



最初に戻るのだが、ふとしたときに、<気>とはすなわち<意味>ではないか、とふと思ったのだ。
今日の言葉の中から拾うならば、<気を放つ>とは<意味を放つ>ことと同義なのではないかと、ふと思ったのだ。
<気を放つ>にはあきらかに<デザインすること>が伴っているように思える。
そして<デザインすること>は<バランスをとること>にも他ならない。

そうやって考えると、<気を放つ>ことには必ず受け手が必要であるということにもなる。
<気を受ける>というのは<気を放つ>以上にデリケートな行為だと思っている。
しかも、その気を受ける深度は、人によってかなり個性差があるということなのだろう。

そして<気を受ける>ことについてはもちろん自分が仮想受け手になれることも含むのだ。
気を出すこと、仮想受け手として機能すること。
自分で自分のコップを満たせるようになる、という、はるか昔に受けた自己啓発セミナーでの主催者のセリフを思い出す。
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